人間的コミュニケーションのはじめ
礼に始まり礼に終わる。
昔習っていた空手教室で最後に色々みんなでコールアンドレスポンス的なものをするときに言っていた言葉で唯一記憶に残っている言葉。
確かに「おはよう」「さようなら」とか挨拶や礼といった類の言葉を交わし合うだけでその日のその人(達)との関係が始まるし終わる。
それだけで自分が他人の中に存在しはじめ、思い出にかすかに残る。挨拶は基本と言われるくらいだから大抵の場合そうなんだと思う。
ただこの先は地獄だ。年追うごとにその次の内容が複雑になっていき、昔は昨日見たテレビの話でよかったものがニュースの話やゴシップ、会社や仕事の愚痴など多岐に渡り、選択をミスればそこから何分、何時間気まずい時間が流れる。感想や自分の感覚を話せば自分語り濃いめできついし、「どう思います?」「そうですよねー」的に合わせてばかり入れば何も面白くないやつに自動的に降格していく。挨拶をすればその瞬間サバイバルが始まる。
如何に人間的に。如何にその人の中に存在し続けるか。これはたまたま叶うものではなく人間的コミュニケーションの教科書の中で全て決まっている。
一つ話題を取りこぼす。そんな奴は他にいくつも話題を取りこぼしている。そうなればあいつは話が合わない、よくわからない奴というレッテルの元、自動的な降格が始まる。
SNSにおいても、熱弁をふるったところで刺さらないアカウントと刺さるアカウントに二分され刺さらないアカウントの自分語りはそれはもう見るに耐えないものがある。個人が勝手に取得し、書きなぐっていい壁を手に入れたはずなのにそうではないのだ。ある程度はみ出してはいけない枠があり、字が上手いとか絵が上手いとか人を傷つけないような絶妙なラインを進んでやっと自分語りが数%許されはじめる。他人を阻害したりすることで注目をあび自分語りを続けてもいい空気を作ることに長けているものもいるが路線変更は難しく、無理やり感が出てきたらまた降格が始まる。
そんな中で健全な人間関係やコミュニケーションはどのように行えばいいのだろうか。
最近なるべく今まで薄い繋がりだった人たちと会うように心がけている。その中で気づくのは自分が壁になって様々なテーマに沿って作られたカラフルなボールを投げつけられているだけだということ。なんの興味もないことをただ聴き続け、ひたすらに受け止め続けているということ。色の流し方もわからず知らず知らずのうちに真っ黒な部分が出来はじめ、自己嫌悪や人嫌いのような状態に陥っている。人間的なコミュニケーションを心がけていたはずなのに。
そんな今、他人を否定したり、意見をぶつけ合うことは必要ないんではないかと思う。ただこの人はこういう人でこんな意見を持っている。その事実だけがあればあとはどうとでもなる、そんな気がしている。自分が興味ないように他人もまた自分に興味がないのだ。まず興味があるかないかで人を選別していない。選別すらしていないような顔をしている。降格はしてしまうのに。
人間的コミュニケーションとは、如何に自分以外の人間が人間ではないと信じ、人ならざるものとうまくコミュニケーションをとるのか、ということなのだろう。
人だと信じ、人のためを思うような行為は内省的に行うことであり表面的に行うことではないのだ。表面化してしまったが故に評価され降格の原因になってしまうのだ。降格は人間的コミュケーションを行う機会を失う。いくら自分が人間であると信じていても、人ならざるものとして扱われ自分の認識すらも自ずとそうなっていく。
そう考える今、自分は人なのか、人でないのか。
今日もまた誰かの中で僕は降格している。