学習する理由
今日は都会に出た。
自分の住んでいるところはそこまで都会でもなく極端に田舎でもない。
都会にはいろんな人がいて毎回とても勉強になる。
サンドウィッチを食べながら服屋さんを歩いている人とか、スターバックスで一目散に空いた席を友達のために確保する人。(今日はトールサイズで頼んだ飲み物がショートサイズできた。結果的にはちょうど楽しめる量でよかった。定員さんナイス。)
自分の仕事で作成するものをもしかすると手にするかもしれない人がわんさかいる。手にしても数秒で捨てる人から何日も持って大切に色々な角度から見てくれる人もいる。その仕事にどれくらいの自信を自分が持っていようとも。
どんな仕事をするにも必ずいつかは誰かと繋がる。細かく言えばまずクライアントには直接的に影響するし、最後のところで跡形もなくともユーザーにも届いている。その人たちはなぜそれを手にするのだろう。自分はその人のことを知らないのにどうやったらその人が手に取ってくれるものを作れるのだろう。
きっと学習を続けるしかない。
すごく当たり前のことだけど、そのためには学習し続けるしかない。
その人たちのことを少しでも知るために美容雑誌を見たり、週刊誌を見たり、テレビやあらゆるメディアから知れる情報や、デザインや技術的な流行もしっかり追わないといけない。
だけどここにきて学習が目的化することがある。学べばわからないことが出てきて、自分のために学習しようとし始める。きっと悪いことではないのだけれど。
最初は誰かを理解するために始めた学習もいつの間にか自分のためになる。その時は忘れていてもまたどこかで誰かのためと考えればいいし、その時の役に立つことはなんとなくわかっている。それでも自分のためだと気付いた時の焦燥感というか、もっとこう真っ白になった感じは否めない。
都会に出るとそんなことをよく思う。自分はなんのために今日を生きて明日も学習するのだろうか。