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【2章】やっぱ、その新人賞は辞退しますっ!
授賞式の1年前。
机に向かって、貴生川は主人公の名前を決めかねていた。サイ・ヤング佐和村新人文学賞の応募原稿。締切まであと三日。デスクトップのWordには、すでに二百枚分の文字が埋まっている。ただし、主人公の名前だけは空白のままだ。ここまで「彼は」とか「私は」で逃げてきた。
夜の十時を回っていた。窓の外では雨が降り始めている。かすかな街灯が、窓ガラスに映る雨粒を黄色く照らしていた。部屋の照明は、四十ワットの電球だけ。机の上の缶コーヒーは、まだ温かい。
古い本棚が、貴生川の背後で壁一面を覆っている。文庫本が乱雑に詰め込まれ、何冊かは横倒しになっている。棚の上には埃を被った古雑誌の束。その横には、箱に入りきらないノートの山がある。部屋の隅には、段ボール箱が二つ。中身は覚えていない。
貴生川は、缶コーヒーに手を伸ばす。一口飲んで、モニターを見つめる。カーソルが点滅している場所に、主人公の名前が入る。それだけで、物語は動き始める。
ふと、思い立ったように入力を始める。
「霧山...」
キーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。その瞬間、スマートフォンが震えた。知らない番号からのメッセージ。普段なら即座にブロックするのだが、なぜか開いてしまう。
[22:47] 不明な番号
霧山さんはいますか?
貴生川は缶コーヒーを手に取り、もう一口飲む。「霧山」と入力されたモニター画面と、スマートフォンの画面を、交互に見る。時計の秒針が、やけに大きな音を立てている気がした。
立ち上がって、窓際まで歩く。雨は本降りになっていた。通りを歩く人の姿はない。ただ、どこかの家の窓が黄色い光を落としている。振り返ると、本棚の影が床に伸びていた。
机に戻り、椅子に座る。スマートフォンの画面は、まだメッセージを表示したままだ。
「いや、霧山はここにはいないよ」
口に出して言ってみる。でも、それは違う気がする。
「まだ、いないのかな」
貴生川は、モニターの「霧山」という文字を見つめる。
缶コーヒーを手に取り、中身を確かめるように揺らす。まだ半分近く残っている。一口飲んで、缶を置く音が部屋に響く。
本棚から、何かが落ちる音がした。古い文庫本が、床に倒れている。拾い上げようとして、タイトルに目が留まる。『影の空白』。そういえば、いつ買った本だったか。
「これは、もう決まりだな」
文庫本を本棚に戻し、キーボードに向かう。検索と置換の作業を始める。空白だった箇所が、次々と「霧山」という文字で埋まっていく。その度に、画面がちらつくような気がした。
気のせいだろう。貴生川は入力作業を続ける。時々、缶コーヒーに手を伸ばす。雨の音が、少しずつ強くなっていく。窓の外は、もう真っ暗だ。
誰かが、この部屋を見ているのだろうか。
それとも、まだ見ぬ誰かが、この物語を読んでいるのだろうか。
貴生川は、黙々と文字を打ち込んでいく。キーボードを叩く音と雨音が、静かな室内で重なり合う。机の上の缶コーヒーは、もう冷めていた。
時計は、二十三時を指している。締切まで、あと三日。
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