空席探訪記
電車の中で空席を探すことほど、人間の本質を暴く行為はないのではないかと最近思う。
まず、私たちは空席を見つけた瞬間、その座席に向かって歩き出す前から、すでにその席を「所有」している。目で見つけた時点で、その席は私のものなのだ。ところが、自分より少しでも足の速い人間が現れた途端、その所有権は霧散する。私たちは「見つけた」という事実と「座る」という行為の間に横たわる深淵を、毎日のように体験している。
先日も、かなり混雑した電車で奇跡的に空席を発見した。しかし、その席に向かって歩き出した瞬間、反対側から小走りでやってきた会社員らしき男性と目が合った。彼も私も、その席を目指していることは明らかだった。このとき人は、相手の歩く速度を瞬時に計算し、自分が座れる確率を算出する。私は計算した。そして諦めた。
諦めるという行為は、実は人類最大の叡智かもしれない。「あの席に座れたはずだった」という可能性は、永遠に私の中で生き続ける。実際に座ってしまえば、その席は単なる「今座っている席」に過ぎなくなってしまう。可能性の中にこそ、最大の充足が宿るのだ。
ところで、空席を見つけた時の人間の行動パターンには、いくつかの類型があることに気がついた。
まず「堂々派」。この人々は、空席を見つけると迷うことなくまっすぐに歩いていく。彼らは自分の権利を確信している。空席に向かって歩くことは、彼らにとって社会契約の一部なのだ。
次に「遠慮派」。空席を見つけても、周りをきょろきょろと見回してから動き出す。他に座りたい人がいないか確認しているのだ。しかし、この行為が逆に座席を失う原因となることも少なくない。
そして「確認派」。この人々は空席に向かう前に、その席が本当に空席かどうかを入念に確認する。カバンや新聞が置いてあるだけかもしれない。傘が忘れられているだけかもしれない。この慎重さは時として賢明だが、やはり座席を逃す原因となりがちだ。
私自身は「諦観派」に属する。空席を見つけても、そこに至るまでの障害を想像し、たいていの場合諦めてしまう。人混みをかき分けていくのは面倒だし、座れたとしても次の駅で降りる人が現れるかもしれない。そう考えると、立っているのもそれほど悪くない。
この「諦観」は、実は最も積極的な選択かもしれない。なぜなら、空席を探すという行為自体から自由になれるからだ。電車に乗り込んだ瞬間から、私たちは「座れるかもしれない」という可能性に囚われ、その可能性を追い求めることを強いられる。しかし、最初から諦めてしまえば、その束縛から解放される。
ただし、この考えには重大な欠陥がある。それは、「諦観」を選択する時点で、すでに空席の存在を意識してしまっているという点だ。完全な「諦観」であれば、空席の存在自体に無関心でなければならない。これは私の「諦観」が、実は見せかけに過ぎないことを示している。
結局のところ、私たちは空席という「可能性」から逃れることはできない。電車に乗り込んだ瞬間から、私たちは空席を探す運命にある。それは意識的か無意識的か、積極的か消極的かの違いでしかない。
そう考えると、電車の中の空席とは、私たちの欲望の投影に他ならない。座れるかもしれないという可能性は、常に私たちを誘惑し続ける。そして、その誘惑に対する態度こそが、私たちの本質を映し出す鏡となるのだ。
今日も私は、空席を見つけては諦め、諦めては見つける。この果てしない循環の中に、人生の真理が隠されているような気がしてならない。