【1章】やっぱ、その新人賞は辞退しますっ!
東京・帝国ホテル「孔雀の間」。第55回サイ・ヤング佐和村新人文学賞の授賞式が行われようとしていた。
華やかな照明に包まれた会場には、文学界の重鎮たち、出版社関係者、メディア、そして期待に胸を膨らませる若手作家たちが集っていた。約300人の参加者たちの間には、期待と緊張が入り混じった空気が漂っている。
壇上には、主催者であるコザリテ出版の社長、選考委員たちの姿があった。そして、受賞者席には、今年の受賞作『因果律』の著者、貴生川の姿があった。
28歳の貴生川は、やせ型で背が高く、少し前かがみの姿勢。黒縁の眼鏡の奥の瞳は、不安と決意が混じり合っていた。彼の長めの黒髪は、何度も手で掻き上げられ、少し乱れていた。
「ただいまより、第55回サイ・ヤング佐和村新人文学賞の授賞式を執り行います」
司会者の声が会場に響き渡った。参加者たちの私語が徐々に収まり、静寂が訪れる。
「それでは、第55回サイ・ヤング佐和村新人文学賞の受賞作品『因果律』について、選考委員長の久保田先生より講評をいただきます」
久保田は壇上に立ち、威厳のある声で語り始めた。
「本年度の受賞作『因果律』は、現代日本を舞台に、主人公の霧山が偶然の連鎖が生み出す必然性に気づき、それを操作しようと試みる物語です。この作品の斬新さは、その構造と内容の両面に表れています」
久保田は一呼吸置いてから続けた。
「各章が一見無関係な短編のように読めるにもかかわらず、巧妙に連携しているその構造。時系列が複雑に入り組み、読み進めるごとに全体像が浮かび上がる独特の語り口。そして何より、科学論文と詩的表現が融合した斬新な文体は、読者の心に深い印象を残します」
会場からは小さなどよめきが起こった。
「本作品は、量子力学や複雑系科学の概念を人間ドラマに織り込みながら、現代社会のシステムと個人の選択の関係性に鋭い洞察を加えています。特に印象的なのは、主人公が蝶の羽ばたきを観察することで遠く離れた場所での事故を防ぐシーン。これは、観察者効果が現実に及ぼす影響を見事に表現しています」
久保田は貴生川に視線を向けた。しかし、受賞者席にいるはずの貴生川の姿はなかった。久保田は少し困惑した表情を見せたが、すぐに講評を続けた。
「選考委員会が最も高く評価したのは、本作品が『文学作品が現実世界に与える影響』という命題を、その内容のみならず構造自体で体現している点です。読者は本作品を読んだ後、現実認識に変化を感じずにはいられないでしょう」
久保田が講評を終えると、会場から大きな拍手が起こった。しかし、その拍手の中にも、どこか違和感や不安が混じっているようだった。まるで、何か重要なことを見逃しているような、しかしそれが何なのか分からないような...そんな奇妙な感覚が参加者たちを包んでいた。
「それでは、第55回サイ・ヤング佐和村新人文学賞の受賞者、貴生川様をご紹介いたします。貴生川様、壇上にお上がりください」
会場から大きな拍手が沸き起こる。貴生川はゆっくりと立ち上がり、壇上に向かって歩き始めた。その足取りは重く、まるで時間が引き伸ばされているかのようだった。
壇上に立った貴生川は、会場を見渡した。輝かしい未来への期待に満ちた眼差しが、彼に向けられている。メディアのカメラは、この瞬間を逃すまいと彼に焦点を合わせていた。
貴生川は深く息を吸い、決意を込めて口を開いた。
「申し訳ありません。やっぱ、その新人賞は辞退しますっ!」
一瞬の静寂の後、会場は騒然となった。
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権威あるサイ・ヤング佐和村新人文学賞を『因果律』という作品で受賞した主人公の貴生川。 相棒の田辺と画策して、授賞式当日、彼は突如として賞…
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