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『松永兄弟』 プロローグ:目黒の記憶
昭和二十一年の夏の朝。目黒の街はまだ戦禍の傷跡を残していた。松永松次郎は、いつもと変わらぬ几帳面さで洋品店のシャッターを開けた。三重県津市の呉服屋に生まれ、東京で身を立てた男の習慣は、店の商品が底を突いた今も変わらない。空襲こそ免れたものの、棚には埃を被った木箱が数個残るだけだった。
「お父ちゃん、今日も開けるの?」
声の主は長男。電気関係の仕事に興味を持ち始めた少年は、父の頑固さを理解できないようだった。松次郎は答えない。ただ黙々と店先を掃く。
「うるさい。学校の支度をしろ」
店の奥から、百二十キロを超える体格の大きな母・トヨの声が響く。宮城県仙台から単身上京し、かつては看護婦として働いていた女は、今や五人の子供を持つ母となっていた。
「健司!高司!国松!起きてるかい!」
トヨの声に、次男の健司が最初に返事をする。物静かな少年は、いつも母の呼びかけに素直に応えた。三男の高司はまだ布団の中。活発な性格の反面、朝は苦手だった。四男の国松は既に起きていて、末っ子の俊国の面倒を見ていた。
「また遅刻するぞ」
松次郎の冷たい声が、高司の耳に突き刺さる。
「起きてます!」
慌てて布団から飛び出した高司の頬には、昨日の傷がまだ残っていた。近所の子供との喧嘩の跡。松次郎の平手が、瞬時に高司の頬を打った。
「この馬鹿もん!」
「やめときー!」
トヨの巨体が、父と子の間に割って入る。夫の厳格さに対する防波堤のように。
「また子どもに手え上げて!酔っぱらいのくせに!」
「うるせえ!」
いつもの夫婦喧嘩が始まった。表通りまで響く大きな声。近所では日常の風景となっていた。
「お前らの母ちゃんは、強情で頑固でなぁ...」
松次郎は店の隅で独り言を呟く。しかし不思議と、その声には愛情が滲んでいた。
食卓では、トヨの手作りの味噌汁が湯気を立てている。米の配給は少なく、おかずは質素だったが、トヨは工夫を重ねて家族の胃袋を満たそうとしていた。
「お前ら、食べられるだけマシなんだからね」
トヨの言葉に、兄弟たちは黙って頷く。健司は丁寧に、高司は急いで、国松は弟の俊国の面倒を見ながら、それぞれの朝食を済ませていく。
「行ってきます」
子供たちが学校へと向かった後、松次郎は再び店先に立つ。商品の乏しい店で、客を待ち続ける。トヨは洗濯物を干しながら、時折夫の背中を見つめていた。
「あんたも、つらいんだね」
トヨの呟きに、松次郎は答えない。ただ黙々と、埃を払い続ける。しかし、その仕草の一つ一つに、家族を守ろうとする意志が見えた。
昼下がり、誰もいない店で、松次郎は一枚の写真を見つめていた。戦前、呉服屋の跡取り息子だった頃の自分。その隣で、笑顔のトヨが立っている。結婚したばかりの二人の姿。松次郎は静かにため息をつき、また写真を仕舞う。
夕暮れ時、学校から帰った子供たちの声が響く。高司が元気よく飛び込んでくる。健司が静かについていく。国松が俊国の手を引いている。松次郎は相変わらず無言。しかし、その目は確かに、息子たちの姿を追っていた。
目黒区役所の近くにある柔道場は、戦後の混乱期にあって、不思議と活気に満ちていた。畳の匂い、汗の匂い、そして時折聞こえる掛け声。道場は子供たちの憧れの場所だった。
「もっと腰を落とせ!」
師範の声が響く中、高司は黙々と受け身の練習を繰り返していた。小学四年生にして、すでにその才能は周囲の目を引いていた。投げられても痛そうな素振りを見せない。むしろ、次の技を仕掛けようと目を輝かせている。
「健司、お前ももっと攻めろ」
師範に声をかけられ、健司は静かに頷く。高司とは対照的に、基本に忠実で無駄のない動きが持ち味だった。兄弟で組む練習では、いつも高司が仕掛け、健司が受ける形が自然と出来上がっていた。
「国松、見てるだけじゃダメだぞ」
畳の端で、国松は黙って他の組の稽古を観察していた。技の掛け方、受け方、間合いの取り方。彼の目は、すでに試合の組み立てを読み取ろうとしていた。後にマッチメーカーとして才能を発揮することになる目の確かさは、この頃から芽生えていた。
講道館での試合の日。松永家の兄弟は、いつも揃って参加した。
「おい、松永家の連中が来たぞ」
「また上手くなってるんじゃないか?」
周囲の声に、兄弟は何も答えない。ただ黙々と準備を進める。その様子は、父・松次郎の几帳面さを思わせた。
試合では、高司が攻撃的な組み手で周囲を驚かせ、健司が安定した技で勝ち進む。国松は相手の動きを読んでの効率的な試合運びを見せた。それぞれの個性が、柔道を通じて磨かれていく。
「松永の息子たちは、面白い」
師範は時折、そうつぶやいた。道場では、彼らの存在が一つの基準となっていた。他の門下生たちは、松永兄弟に追いつこうと必死に稽古を重ねる。
しかし、転機は突然に訪れた。
「柔拳だと?」
師範の声が、いつになく冷たく響いた。健司と高司が、見世物興行の柔拳で試合に出ていたことが発覚したのだ。
「申し訳ありません」
健司が深々と頭を下げる。横で高司は歯を食いしばっていた。国松は無言で立っている。
「食うために...」
高司の言葉を、師範は遮った。
「柔道は武道だ。見世物にしてはならん」
「でも!」
「破門だ」
その一言が、道場に重く響いた。松永兄弟たちが、黙って道場を後にする姿を、誰もが見送った。
「兄ちゃん...」
国松が声をかけようとした時、高司が拳を壁に叩きつけた。
「くそっ!」
健司は黙って高司の肩に手を置く。その手は、微かに震えていた。三人は長い間、道場の前に立ち尽くしていた。
その夜、家に帰った兄弟たちを、母・トヨが待っていた。
「聞いたよ」
「すまない」
「何が悪いんだい。食うために必死なんだもの」
トヨの大きな手が、息子たちの頭を撫でる。
「でも、これからどうすんだい?」
その問いに、国松が静かに答えた。
「笹崎拳闘倶楽部に行こう。ボクシングを覚えて、もっと強くなろう」
「お前、何を...」
「兄ちゃん、柔道は終わったんだ。でも、俺たちはまだ前に進める」
国松の言葉に、兄弟たちは顔を見合わせた。そこには、新しい決意が浮かんでいた。
「女相撲だって?」
「違うよ、女子プロレスだって」
「まあ、見世物じゃないの」
昭和二十九年の夏、目黒の街に噂が広がっていた。松永家の末っ子で、唯一の女の子である礼子が、女子プロレスラーになるというのだ。
「あんた、本気かい?」
母・トヨの問いに、礼子は真っ直ぐな瞳で応えた。
「うん。この道で、私、生きていく」
店の奥で商品を整理していた松次郎が、一瞬手を止める。そして、まるで独り言のように呟いた。
「好きにしろ。ただし、恥だけはかくなよ」
厳格な父にしては、珍しく柔らかい言葉だった。
「兄ちゃんたち、見に来てよ」
礼子の誘いで、ある夜、兄弟たちはストリップ劇場の薄暗い客席に座っていた。八畳ほどのマットが設置された簡素なリング。そこで、女性レスラーたちが真剣勝負を繰り広げる。
「なんだ、これ」
高司の声には、複雑な感情が滲んでいた。見世物として扱われる格闘技。それは彼らが破門された柔拳と、どこか通じるものがあった。
しかし、試合が進むにつれ、兄弟たちの目の色が変わっていく。
「あの技の入り方...」
「受け身の取り方が...」
「観客の反応が...」
それぞれが、異なる視点で試合を見つめていた。健司は技の正確さに、高司は技の応用に、国松は観客との一体感に、目を奪われている。
礼子の試合が始まった。華奢な体つきながら、柔道で培った技を巧みに使う。観客は次第に引き込まれていく。試合後、楽屋に戻った礼子の頬は上気していた。
「どうだった?」
兄たちに尋ねる妹の目は、誇らしげに輝いている。その瞬間、高司が立ち上がった。
「礼子、俺たちにも、できるかもしれない」
「えっ?」
「指導とかさ。俺たち、柔道やってたし、ボクシングも」
健司が静かに頷く。国松の目が輝き、幼い俊国も何かを感じ取ったように兄たちを見つめていた。
その夜遅く、松永家の食卓は普段より賑やかだった。
「全日本女子プロレス協会から、道場の指導依頼があったんだ」
礼子の言葉に、母・トヨは大きく頷いた。
「あんたらにぴったりじゃない」
店の隅で新聞を読んでいた松次郎も、さりげなく耳を傾けている。
「お母ちゃん」
高司が声を上げた。
「俺たち、やってみようと思う」
「うん、そうだね」
「新しい道を」
「兄さんたちと一緒に」
健司、国松、俊国が、それぞれの言葉で応える。
「あんたら...」
トヨの目に、涙が光った。
こうして松永兄弟は、女子プロレスの世界に足を踏み入れることを決意する。健司は「ミスター郭」としてレフェリーの道へ。高司は指導者として。国松は「ジミー加山」の名でリングを裁きながら選手の育成へ。そして俊国は審判の道を選ぶ。
目黒の空には、いつものように洗濯物の匂いが漂っていた。しかし、松永家の息子たちの目は、はるか遠くを見つめていた。誰も知らなかった。この決断が、日本の女子プロレス界に新しい歴史を刻むことになるとは。
昭和二十九年の夏。松永家の新しい物語は、こうして始まった。