【連載-終-】気になって調べたら、自分なりの正義と対話が大切ということに気づいた(旧優生保護法違憲判決)
> この記事について
初めての連載シリーズの4記事目です。本記事では前回までの記事を踏まえ、私が考えたこと、感じたことをまとめました。これが最終記事です。
お済でない方は前回記事もご覧いただけますと、より内容がわかりやすくなるかもしれません。よかったらのぞいてみてください。
※本記事の執筆にあたり、参照資料を踏まえ事実に沿う内容を記したつもりですが、第三者の確認等は行っておりません。本記事の内容を引用する場合には一切責任を負いかねますので、<参考>に掲載した情報をご確認いただきますようお願いします。
▶ 私なりに考えたこと
> 「正義の理念」を理由としている
本件違憲判決で注目すべき点は、「時間の壁」といわれるまで厳格に適用してきた除斥期間を、正義・公平の理念や信義則に照らし、その適用を認めないという、例外的な判断をしたことと考えます。
この判断のもと、被害者救済の途を開いたという点も特筆すべきものと思います。
前記事で書いたように、そもそも除斥期間の適用を認めないという判断自体、例外です。
過去、除斥期間の適用を認めなかった2つの事例では、他の条文の規定趣旨などを理由にして、除斥期間の適用を認めないと判断していました。
本件違憲判決については、そういった他の条文などの理由付けではなく、「正義の理念」が直接の理由として掲げられているものと思います。
ここに本件違憲判決の意義があるのではないかと考えました。
つまり、
「除斥期間の適用を認めることがあまりにも正義の理念に反する」と裁判所が判断すれば、除斥期間は適用されない場合がある、ということです。
「正義の理念」という抽象的な事柄を理由とするからには、裁判所には慎重な判断が求められると思います(他の条文を理由として除斥期間の適用を認めないこととする場合と比較して、よりハードルが高い)。
「正義の理念」を理由に除斥期間を認めないとする場合もあることを、本件違憲判決で示されたものといえます。
> 草野裁判官の補足意見
草野裁判官の補足意見も注目されるべきと思います。
違憲であると明白な行為でも、時代や環境によっては誰もが合憲と信じて疑わない場合もある、という指摘です。
立法府の動向を注視し、違憲である法律、おかしな法律を立法させないよう、チェックする姿勢が私たちに求められているのか、と思います。
また、世の多数意見を正しいものとそのまま鵜呑みにするのではなく、一度立ち止まって、自身の正義の理念に反することはないか、確認する意識を持つことが大切だということではないでしょうか。
> 「正義の理念」とは
それでは「正義の理念」とは何でしょうか?
何をもって「正義」とするのでしょう?
これこそ時代や環境によって左右されやすく、また、人によってもその定義は多種多様なものとなりそうです。
「明確な正解が無い時代」と言われていると思いますが、だからこそ今の時代には、誰もが納得できる「正義」の概念を希求し続けることが必要だと考えます。
少々、第三者的な視点となりますが・・・
ヒトは生きるために集団生活をはじめ、社会を築き、各々が様々なはたらきをすることによって社会が成り立ち、支えあって生活しています。
他者との関わりは切っても切り離せず、他者と協調していくことで社会が成り立つものと思います。
「正義の理念」というのは、そんな社会が円滑に機能するため、各々がなるべく生きづらさを感じることのないようにするため、ヒトが見出してきた概念ではないかと思います。
時代や環境の変化によって変わる「正義」もあれば、普遍的な「正義」もあるでしょう。
大切なのは、自分なりの「正義の理念」をもつことと、他者との対話を通じて、多数派の正義が果たして真に正しものであるか、疑う姿勢をもつことだと思います。
大きく誤った選択をしないためにも、自分なりの「正義の理念」を心に留めておくことが大切だと思います。
> おわりに
違憲判決がだされること自体珍しいことなので、私も気になって調べてみたところ、本記事で書いたような感想を抱きました。
社会全体では「是」とされていたものが実は「正義の理念」に反しており、違憲だったという判断がなされており、そうした違憲な政策であっても社会や国が推進してしまうこともあるのだな、ということが驚きでした。
かつてこの国が突入した大戦でも、同じような構図があったのかなあと想像してみたり・・・(日米開戦や特攻の採用など)
SNSの発達により誰もが気軽に思いを表現できるようになりました。
人の数ほど「正義」の概念があるのだと思います。
自分の意見が正しい、多数意見が正しい、と無条件に決めつけるのではなく、周りの人と対話し、丁寧に考え・意見を整理していくという姿勢を持ちたいと思いました。
ここまでお読みいただき、ほんとうにありがとうございました。
私が感じたことが、どなたかの思考の整理、新たな気づきとなれば幸いに思います。