或る男の晩酌【渋谷編】
母さん、僕は今、渋谷にいます。
渋谷は、今日も雨です。
…と、ごく一部にしか分からないネタを振ってしまったが、私は雨降る夜の渋谷に到着した。
ここ最近、本気で煩わしかった病気から完全に解放されたこともあり、快気祝いと称して美味いものを飲み食いしたい、という欲望に逆らえなかった。
何せ2週間も禁酒禁煙を守ってきたのだ、多少は羽目を外してもバチは当たるまい。
もっとも、職場の上司や同僚の方々には多大な迷惑をかけた訳だから、近場で大っぴらにやるのはちょっと気が引けるのも事実。ではどうすればいいか?
(そうだ、場所を変えよう)
我ながらアホな結論ではあるが、顰蹙を買うよりはずっと良い。むしろ久々に遠出して飲む口実ができたことを喜ぼう。
「さて、どうするかなぁ」
楽しく迷う私の目に、とあるXのポストが止まった。その画像に心を揺さぶられた私は、ポスト元のアカウントにリプを送る。
「明日、行きます」
間髪入れずに返ってきた「お待ちしています」の言葉に勇気付けられた私は、考えることを投げ捨てて行き先を決定した。
そうだ、渋谷へ行こう。
こんな短絡的な思考を持つ大人には、絶対になってはいけない。おじさんとの約束だ。
こんな経緯で、渋谷である。
まさか自分でもこんな簡単に決めるとは思っていなかった。しかし私は
「あの美味そうな料理とお酒を見て見ぬふりはできない」
とばかりに、定時で仕事を無理やり終わらせて電車に飛び乗ったのである。
そう、全ては美味そうな画像を上げた人が悪い。
日本中の飲食店に喧嘩を売るような言い訳をしながら、私は久方ぶりに訪れる渋谷に足を踏み入れた。
渋谷は馴染み深い場所だ。
学生時代によく通ったせいか、都内の中では一番相性が良いように思える。楽しかったことも、ちょっと怖い思い出も、今は昔の話だ。
とはいえ、この街は常に大きな変化を厭わず、変わり続けている。時間を置いて訪れる度に、記憶は過去の思い出へと成り代わる。少しの悲しさと諦め、そして未知への期待感を常にもたらしてくれる刺激的な場所。
そんな街に降り立った私は、スマホで目的の場所をマップに映し出す。ナビに従って辿り着いた場所に思わず苦笑いした。学生時代、毎週のように仲間と通った居酒屋の目と鼻の先だったからだ。
「まだ、あったんだ」
懐かしさに、少し鼻の奥がツンとした。しかし、今日の目的地はここではない。私は店の看板に軽く会釈を送り、歩き出す。
また今度、お邪魔します。そんな思いを込めて。
「こんばんは、お世話になります」
地下への階段を降り、店員に挨拶する。XでのリプとDMのおかげで、予約扱いにしてくれたのはありがたい。
L字型のカウンターと大きめのテーブル席がいくつか、半個室も複数ある店内の席はほぼ埋まっている。金曜日の夜という時間を差し引いても、賑わいから人気の店だと分かる。壁に所狭しと並ぶサインには、芸能人に疎い私でも判別できるものがいくつかあった。この隠れ家チックな装いが心地よい。
焼台からは串焼きの香ばしい香りが漂い、額に汗を浮かべた店員が陽気にオーダーを取り、グラスや料理を運ぶ。初めて足を運び、まだ何も飲み食いしていない店を、私は一発で気に入ってしまった。
決して近場でないことにほんの少し残念がったが、同時に安堵する。入り浸りになったら、それこそ財布と肝臓が保たないからだ。
料理とビールをオーダーした。運ばれたビールとお通しに、軽く手を合わせる。
「いただきます」
ジョッキを傾け、ビールを呷る。ほろ甘い泡、冷たい感触、適度な苦味、スルリと喉を通る心地良さ。
これこれ、間違いない。これだよ。
2週間ぶりの、文字通り喉から手が出るほど欲したものが体内に入る快感はたまらない。一気に飲み干したい欲をなだめ、二口飲んでジョッキを置く。たまらなく美味い。
久々の晩酌だ、時間もたっぷりある、ゆっくり味わおう。お通しを摘みながら顔を上げた。店内は陽気な声とカウンター越しに聞こえる調理の音で満たされている。この喧騒に、却って居心地の良さを感じた。心の中で笑顔を浮かべながらビールを一口。そうしていると、待ちに待った料理が運ばれてきた。
揚げ春巻。
私はSNS用に写真を撮るのももどかしく、熱々の春巻きにかぶりつく。まずは何も付けずにそのままだ。
熱い。パリパリの皮の食感に続いて、中の餡から濃厚な香りと挽肉の旨味、そして春巻きには珍しい食材の感触が一気に飛び込んできた。そう、これが食べたくて江戸川と隅田川を越えて来たんだ。
マイタケをふんだんに使った春巻。これの仕込みと出来上がりの画像に、私の心と胃袋は完全に掴まれた。
もっと味わいたいと思いながらも咀嚼して飲み込み、間髪入れずにビールを呷る。最高。頭がグルグルしそうだ。
マイタケにはグルグルが似合う。
ふと頭をよぎった言葉に我に返り、苦笑いが浮かぶ。私の心はだいぶ推しに占拠されているようだ。
今度は辛子醤油でも春巻を味わう。これもまた美味い。そしてビール。これを数回繰り返し、ジョッキと皿は空になった。
どちらもお代わり、と言いたいのを堪える。居酒屋で独り占めはしたくないし、他のお客にもこの美味さを感じて欲しい。私は次の飲み物と、少し時間のかかりそうな料理をオーダーする。ビールのお代わりも捨てがたいが、期待以上のお店だ、他の飲み物も試してみたい。
運ばれてきたのはハイボール。ウィスキーはカバラン、台湾のシングルモルトだ。グラスを目の高さに持ち上げ、静かに口に含む。
炭酸の刺激と共に華やかな香りとほのかな甘み、少し重量感のある飲み応えが口内に広がる。しばし楽しみ、喉に通す。あぁ、美味い。
亜熱帯の地で作ららる、一昔前では考えられなかったモルトウィスキーは、今や世界的に評価を得られるようになった。特徴は何と言っても、その南国フルーツに似た香りと、しっかりした飲み応えだ。もちろん、樽熟成特有の木の香りと、内側を焦がしたことによるほのかなカラメル風味もしっかり感じられる。ソーダで割ってもなお分かる豊かな風味に、ご機嫌な気持ちになる。
ハイボールを飲む私の前に、次の料理が運ばれてきた。せせり、ハツ、つくねの焼鳥。タレだ。
私はせせりを一口、串から引き抜いた。心地良い噛み応えとタレの甘み、鶏の旨味を楽しみ、飲み込むと残った一口分のハイボールを飲み干す。焼鳥を肴にシングルモルトのハイボール。普段なら合わせない贅沢な組み合わせは、心を幸せにする。
さぁ、焼鳥が来たからには日本酒だ。すぐさま注文し、運ばれた日本酒を手早くお猪口に注ぐ。まずは一口。これは美味い。
信州亀齢 ひとごこち 純米火入れ。
長野の地酒は詳しく知らないが、この旨さは格別だ。お酒単体でも、料理と合わせてもイケる。気取りの無い、それでいてしっかり自己主張のある味と香りに、ついつい飲むペースが早くなる。お猪口2杯を空にしたところで、皿に置かれた味噌にせせりの肉を付けて齧る。
「え?何これうまっ!」
つい声に出してしまうほど、その味には驚かされた。味噌なのにカレーの風味がする、こんな味覚は初めてだ。思わず店員にこのソースについて尋ねると、韓国味噌にガラムマサラとその他の隠し味を混ぜたもの、という答えが返ってきた。
言葉にすると、タレ味の焼鳥に合わせるにはいささか暴力的な風味に受け取られるかもしれない。しかしその味わいは変に尖ったところが無く、しっかり調和している。絶妙なバランスだ。そして追いかける日本酒で口の中をスッキリさせる。
こんな幸せでいいのだろうか。
小心者である私は、多幸感が一定を超えるとネガティブ思考に入りがちだが、今夜は違う。何せ長患いの後の快気祝いだ、ここで後ろ向きな気持ちになったら、それこそバチが当たる。
今、この瞬間はこの晩酌を楽しもう。
純米酒が空になったので、次に決めていた日本酒をオーダーする。
松の司 純米吟醸。
これまた美味い。こちらは吟醸なだけあって、ハツの野性味とつくねの濃厚さをしっかり受け止めてくれた。口内でのマリアージュは快感ですらある。
至福の時間は有限だ。つくねの残りを串から引き剥がし、よく噛んで味わう。お猪口に残った松の司を飲み干す。徳利は既に空だ。
日本酒お代わり、という言葉をグッと飲み込む。私は外で飲むとき、日本酒は最大2合と決めている。それ以上飲むと理性が働かなくなり、記憶を無くすまで飲み続け、翌日に様々な後悔をする確率が跳ね上がるからだ。
それでなくても今夜は久しぶりの晩酌で、さらに酒量が多い。快気祝いとはいえ、今の時点で普段以上に酒が進んでいる。酔っているという自覚もある。
私は若干怪しくなった滑舌と、フワフワする頭で店員に注文する。
「芋焼酎を、ロックで下さい」
最後は少し強いお酒で口の中をサッパリさせたい、そう思って今夜の晩酌、〆の一杯は焼酎と決めていた。
焼酎が入った陶製の酒器を手に、ゆっくりと飲む。芋焼酎のクセになる香りと氷の冷たさ、キリッとした飲み口が、フワフワした意識をシャンとさせる…はずだった。
(いかん、完全に限界を超えた)
調子に乗りすぎて、自分の許容量を間違えてしまった。もう少し食事を腹に入れておけばよかったと後悔するも、ここから何かを頼む気力は無い。私は酒器の中に残る焼酎の最後の一口を飲み干した。
「ごちそう、さまでした…」
勘定を済ませて屋外へ出ると、まだ雨はパラついていた。傘をさし、フラつきそうになる身体をゆっくり前に押し出し、駅への道を辿る。
そういえば、この道を駅へ向かうときはいつもこんな感じだったっけ。
仲間と共に歩いた過去の思い出が、酔った頭をよぎる。あれから何年経ってしまったのだろう、そんなことを考えながら駅への地下道を降りる。
美味かった。自分の限界を超えてしまうほど、食事もお酒も自分好みの店だった。次は誰かを誘ってみよう。専ら一人飲みの私にしては珍しい考えだ。
さぁ、早く帰って酔いを醒まし、また体調を崩さないようにしないと。
私は電車のシートに座り、スマホで降りる予定時間の5分前にアラームをセットすると目を閉じた。
追伸。
渋谷にある居酒屋「鳥ぶらん」のスタッフの皆さま、その節はお世話になりました。お酒も料理も、本当に美味しかったです!
また、近いうちにお邪魔します。