「M」を巡る話

 今年もりっかさん主催の特撮自由研究アンソロジーに参加した。
 https://behind-aurora.booth.pm/items/3389284

 寄稿したのは『「僕」で「M」のparadox~「M」についての個人的見解~』だ。タイトル通り、仮面ライダーエグゼイドの永夢と「M」とパラドの関係について本編から読み取ったことをまとめている。この原稿本文に入れることができなかった話を、自分の覚書兼補足として残しておきたいと思う。

 そもそも、永夢の福祉について思うところがあった。永夢は幼い頃に母親を亡くしている。一人で子供を育ててきた父清長は、決して悪人ではなかっただろう。しかし父と子は断絶し、幼い永夢のこころは救われないままだった。ではどうしたら幼い永夢を救えたのか。そもそも永夢にとっての救いとは何なのか。それを考えることが、現実の子供達に対する誠実な態度なのではないか。そんなことをぼんやりと考えていた。
 しかし、そこを突き詰めていくとそれはもう特撮カテゴリーの話ではなくなってしまうし、センシティブ過ぎる内容になってしまう。少なくとも人様のアンソロジーに寄稿する話ではないだろう。
 どうしたものかと考え、流れ着いて、最終的に〈「M」とは何か?〉をまとめることで落ち着いた。「M」のルーツを辿ることは、幼い永夢を読み解くためにも重要なことなのだ。

【リプログラミングとマイティブラザーズXX】

永夢自身が「永夢(一人称僕=XXL)」と「M(一人称俺=XXR)」に分かれるということは、つまりパラドとは別に、永夢の中に「M」が存在しているということになる。リプログラミングでパラドに取り込まれ、その後再び永夢が取り戻した「人間の遺伝子」とは、この「M」のことを指しているのではないか。

『「僕」で「M」のparadox~「M」についての個人的見解~』より

 今回ここが一番の気付きだった。当初〈リプログラミングでパラドが人間の遺伝子を取り込んだとはどういうことか?なぜパラドと『M』が分離しても永夢は変身できるのか?〉がいまいち飲み込めていなかったが、こちらのブログ記事がヒントになった。

あとはマイティブラザーズXXという特殊な形態であったためというのも大きいと思われます。
肉体を二つに分かち、それぞれの精神がLとRに分かれて存在するという状態だったから結局うまく分離出来なかった、とも考えられます。

http://blog.livedoor.jp/kuroemon0803/archives/75679307.html

 つまり、29話で〈パラドが「人間の遺伝子を共有」したままリプログラミングで分離〉した出来事は、〈マイティブラザーズXXR状態での分離〉であることがポイントのようだ。29話でパラドは、

「マイティブラザーズXXはひとりでふたり。今俺たちはお互いの遺伝子も記憶も共有し合っている状態だ」

仮面ライダーエグゼイド29話より

と語る。(そもそも「人間の遺伝子を共有」という話も謎だが、作品でそう示されている以上そのルールに則って話を進めるしかない。)また、XXRは14話で「俺」を名乗る「M」であることが示されていた。
 パラドがXXRの状態―すなわち「M」と同化した状態―でリプログラミングされたために、永夢の一部であったはずの「M」がパラドと同化したまま永夢から分離、そのせいで永夢は「M」の力だけを失ってしまった…という理屈のようだ。
 39,40話を踏まえると、永夢のゲーム病を治す(=変身能力を無くす)にはリプログラミングでは不可能で、完全にパラドを消滅させる必要があったのだろう。29話ではそれを知らずにリプログラミングしたために、永夢から「M」が分離しただけでゲーム病は治らなかった。だから、永夢に変身能力は残りながらも「M」になることができなくなってしまったのだ。

 人によっては周知の事実だったかもしれない。だが、私はずっとその辺が整理できずもやもやしていたので、自分なりの落としどころが見えてありがたかった。しかし、これは原稿のテーマとは直接関係の無い話題だったため入れることができなかった。Twitterで補足するだけではすぐ忘れてしまうので、ブログに書き記しておく。

【パラドをゲーム病として感知できなかったのはなぜ?】

 もうひとつ。19話で「M」状態になってしまった永夢を飛彩がゲームスコープで診察するシーンがある。しかしゲーム病のウイルスは見つからず、飛彩は「普通のゲーム病とは違うということか」と呟く。ここも謎の多いシーンだ。これは一体何を意味していたのだろう。

 私の解釈は〈パラドは「原始バグスターウイルス」という性質ゆえ、永夢とほぼ同化することができる、むしろ19話の「M」はパラドに操られていたのではなく永夢そのものだったから、ゲームスコープでは感知できなかったのではないか〉というものだ。「M」とは、パラドに乗っ取られている状態ではなく、あくまで永夢自身の性格の一部だと個人的に認識している。だから、このシーンはそれを表現した描写ではないかと考えた。

 この話をフォロワーにしたところ、「そもそもゲームスコープは黎斗が作った物。黎斗が生み出した進化済みのバグスターウイルスには対応しているものの、原始バグスターウイルスであるパラドは規格外だったということではないか」と返ってきた。それもあるかもしれない。

 どちらにせよ、〈パラドが通常のバグスターではない〉ことを表すシーンだったのだろう。結局は飛彩の言ったそのままであった。

 なお〈「M」は永夢自身でありパラドそのものではない〉という話は自由研究アンソロジー内で示している。詳しくはそちらで確認していただきたい。

【ジオウ世界のパラド】

仮面ライダージオウ3話4話では、エグゼイドのif世界が描かれている。こちらは、恐らくバグスターウイルスがない≒パラドがいない世界設定のようだが、この世界の永夢もまた「天才ゲーマーM」として活躍している。パラドがいなくても永夢は「天才ゲーマーM」たりえるのだ。(「M」についてはぼかされているが、一度も永夢は「俺」と言わなかったため、この世界に「M」は存在していないと判断してよいだろう。)

 これは〈パラドがいなくても永夢は「M」たりえる〉という話の流れに入れるつもりで、結局削除した部分の文章だ。なぜ没にしたかというと、〈ジオウ世界におけるエグゼイドif世界にバグスターウイルスは存在しない〉根拠が見つからなかったからだ。
 ジオウ3,4話にバグスターウイルスが存在するような描写は無い。だが、存在しないという描写もない。あえてそこは触れないように慎重に描かれている。
 ただ、〈永夢や飛彩が仮面ライダーに変身できる〉〈永夢(小児科医)と飛彩(外科医)が同じ部署に机がある(CR?)〉ことから、世間には公表されていないがゲーム病は存在していた可能性がある。可能性がある、というよりは、無いとは言えない、という非常に消極的な意味合いではあるが。
 しかし、エグゼイドの力がジオウに渡った後は、恐らくバグスターウイルスははっきりと存在しなかったことになる(もしくは未発見のままとなる)のだろう。エグゼイドの力が無くなるということは、その元となるバグスターウイルスの力が無くなるということなのだから。
 その後、バグスターウイルスの存在しない世界となった9話で、バグスターウイルスと出会わなかった檀黎斗が王として台頭する流れは美しく残酷である。

【永夢の福祉について考える】

 パラドが(そして「M」が)存在しない世界の永夢を思うと、私は苦しくなる。パラドや「M」がいてもいなくても、〈大人になることができた〉永夢は恐らく医者となる運命にあるのだろう。医療の道は彼の救いの一つであるかもしれない。だが、それだけが永夢の救いだとしたら、それこそ檀黎斗と同じ結末を迎えてしまうのではないかと私は危惧する。

 思えば、永夢もまた自己肯定感の低い人間だろう。自分がかつて命を軽んじていたことを悔やみ、命を救えない自分には価値が無いと言わんばかりにひたむきな医療行為を続ける。時々周囲の人間を恐れさせるほどストイックに。そんな永夢の姿と、命を賭けてゲームを作り続ける黎斗の姿は重なる。彼らの存在を証明するのは彼ら自身の行為によってのみだ。彼らが救いたいと願う世界に彼ら自身の救いは含まれていない。

『ゼロデイ周りの情報整理と檀黎斗のex-aid考』より

 これは、昨年の特撮与太話アンソロに寄稿した文章から引用したものだ。(『檀黎斗神攻略本』より)

 永夢にとって、医療の道だけではなく、パラドが、「M」が、そしてお好み焼きのシーンがその救いであればいいと私は思っている。永夢が救いたいと願う世界に永夢自身の救いが含まれていないなら、彼を取り巻く周囲が永夢を救いたいと願えばいいのだ。周囲を永夢自身が受け入れることができた時、それは初めて永夢の救いの一つとなるのではないだろうか。そしてそれこそがノベルXの結末なのだと思う。
 だから私はエグゼイドが辿ってきた物語が愛しくて仕方ないのだ。