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私淑という尊敬の形
「私淑(ししゅく)」という言葉がある。
どこか聞き慣れない響きかもしれませんが、その本質は思ったよりも身近にあったりする。私淑とは、直接の師弟関係を持たずとも、ある人を心の中で「師」と仰ぎ、その人の言葉や行動、そして考え方に深く共鳴することを指す。
尊敬とはまた異なる形で、その人の影響を密かに受け、精神的な道しるべとして自身が成長していくのです。現代社会は直接の関わりが希薄になりがち、だからこそ私淑が持つ価値が光って見える。
直接的な尊敬とは少し違い、その人の存在や考えに触れながら、あたかも自分の心の奥でひっそりと「師匠の教え」を育てていくような感覚。現代はどこか人とのつながりが希薄になりがちですが、だからこそ私淑が持つこのひそかな価値が、一層光って見えてくるのかもしれません。
私淑が面白いのは、対象が実際に会ったこともない人物であっても成り立つという点。大好きな作家の作品を読むたびに、文章の端々から見える独自の視点に胸を打たれ、「自分もこう考えてみたいな」と思わずにはいられなかったものです。毎回新刊が出るたびに「この一節、私へのメッセージなんじゃないか?」なんて思い、勝手に弟子になったつもりでいたりするものです。
誰しも、好きな曲を聴いている時に「この歌に励まされている」とさえ思うことがあると思いますが、実際はただ自分に都合のいい部分だけを拾って解釈していることがあります。目の前の相手ではないからこそ、フィルターを通して自分なりに解釈し、吸収する力が養われているのかもしれません。
私淑は、実際にその人と対面して学ぶのとは異なり、その人の「存在」や「思想」と自分の内側で向き合う時間を生み出してくれる行為だと言える。
尊敬や切磋琢磨とはまた違い、私淑はひそやかで、密かに「こうありたい」と願う心から生まれるのだと思う。憧れと違うのは、ただ表面的に真似るのではなく、その人の価値観や行動の背後にある思考を知りたいと感じるところ。
勝手に師と仰ぐ対象を持つことで、日々試行錯誤して生きていく自分と向き合えるようになります。私淑を通して得られるものは、単なる「模倣技術」ではなく「自分の視点が深まっていく」ことに尽きる。
そんな中で私淑は、その人の言葉や文章、思想から時間をかけて少しずつ自分の成長の糧にしていく関係性です。目の前にいない師から得る学びは、自己と向き合い、時には自分に足りないものを直視するための力をくれる。くれるというか、勝手に解釈して頂いているとでもいいましょうか。自分にとっての「精神的な拠り所」がどこかにあるという事実が大事なんじゃないかなと思うのです。
このようなひそかな尊敬を抱き続けることで、私たち自身もまた、その人に近づけるかもしれない。私淑の先にある尊敬とは、静かながらもとても力強い。