【小説】モーニング・ノスタルジー
モーニング・ノスタルジー
ふと自分が起きていることに気が付いた。
ベッドの上で上体を起こしたままボーっとしていたらしい。薄っぺらいが保温性のある布団が脚にかかっているのを見つめる。チョコレート色の掛布団で、二つ下の妹と色違いで最近購入したばかりである。太陽の光が当たった柔らかい色で私の下半身を温めようとしている。
そんなことをふわふわ考えていると、突如ある焦燥が脳に殴り掛かった。
そういえば、今日は模試だ。土曜日を一日奪われる最悪な日程の。アラームが鳴る前に起きた? 私がそんなこと出来るはずない。
そうだ部屋が明るい、振り返る、カーテンの開いた窓から光、朝五時半はこんなに明るくない、だってそうだ、今は冬で、確か十二月でとかその辺で。
もう八時だ。直感的にそれを知った私は慌てて布団から飛び出す。二段ベッドの一階部分から立ち上がり、寝室の扉を開けた。
どうして寝坊なんて、大学受験まであと一ヶ月で、今更こんな初歩的なところで。
ほんのり明るい廊下を二、三歩歩いてリビングの扉を開けると、家族がテーブルに揃って朝ごはんを食べていた。ふんわりとした太陽の光が入ったリビング。母と父が隣合って座り、母の前の席には妹。三人の前にはそれぞれ食事が並んでいて、何か談笑し合っているようだった。
いつも通りの休日。家族全員に余裕がある休日はゆっくり起きて朝食を取るのがお決まりで、私も今日模試なんてものがなかったらここに加わっていたはずだ。
その光景を見てどこか暗い気持ちになりながら、おはよう、と家族に告げる。
やばい、寝坊した。
三人の皿の上には、ホームベーカリーで焼いた食パンのスライス、生ハム、スモークサーモン、数種類のチーズの小さなブロックが乗っかっていて、各々好きなトッピングをしながら食べていた。食パンにピーナッツバターを塗ったり、生ハムでチーズを巻いたり。今三人は、数十年前リリースされた曲が最近また流行っているという話をしているらしかった。
とにかく今からどうすれば模試の開始時間に間に合うかを考える。八時半からの模試に到着しなければ。
今日はタクシーで行くから。
スモークサーモンにケーパースをのせている母と、食パンにいちごジャムを塗っている父に声をかける。もう制服は着ているし、歯磨きを済ませてすぐ駅前へ向かえば、難なくタクシーは拾えるはずだ。
返事も聞かずUターンで洗面台へ向かおうとしたが、背後から母が私の名前を呼ぶ声がした。
「ちゃんとご飯食べないと、試験集中できないよ。とりあえずほら、食べときなさい」
振り返ると、父が座っている席の向かいにいつの間にか食事が並べられていた。少し驚きつつ、それもそうか、と納得する。頭が回っていない状態で試験を受けても意味がないだろう。なんだか頭がふわふわとしているのは事実なのだ。
うん、そうする。
モコモコの靴下でとたとた、と自分の席へ座りに行く。父の向かいで、妹の隣。
モコモコのパジャマから少し手を出して、目の前の皿にのせられた食パンをちぎり始める。
「そっちのオリーブオイル取って~」
こちら側に手を伸ばしてきた妹に、はい、と何故かテーブルの端に置いてあったボトルを渡す。妹はポン、と蓋を引き抜くと、トポトポとオリーブオイルを小さなブロック形の白いチーズにかけた。
えー、ちょっとかけすぎじゃない?
「このくらいが美味しいの」
と、少し得意げそうにそう返してきた。
「本当にオリーブオイル好きだなぁ」
相変わらずだというように笑う、私の向かいに座る父。するとその隣でパンを飲み込んだ母も会話に入ってくる。
「前世イタリア人だったんじゃない?」
絶対そう! パスタとピザも好きだし。
「それな、うちタバスコもかけまくってるし」
「タバスコ使うのは日本人だけらしいよ」
「嘘ぉ」
父による雑学に驚く妹を見て微笑ましく思っていたが、ふと時間のことを思い出す。そうだ、ゆっくりしてる場合じゃない。
あの、そろそろ……
「お姉ちゃんは和食の方が好きだよね~、前ファミレス行った時も一人だけ定食頼んでたし」
食卓を立とうとした瞬間、妹に話題を振られる。もう出ないと間に合わないの、と言いかけて、無邪気な妹の笑顔を見てしまうとそんなことは言えなくなってしまった。父と母も食べ物を口に運びながらこちらを微笑ましそうに見ていた。
これ以上ここに留まっている場合ではない。それは分かっている。だけどそれでも、離れられなかった。
えーっと、ファミレス……少し前に行ったような気もするが、ぼやぼやしていて明確に思い出せない。
そう、だったかも……?
「みんな洋食だったじゃんあのとき! うちがアラビアータで、お母さんがオムライス、お父さんが確かハンバーグ」
ふふ、確かにそうだった。
「小さい時から焼き魚とか煮物とか、渋いもの好きよねえ」
「八歳の誕生日会で料理のリクエスト聞いたら『肉じゃが』って返ってきたときは大笑いしたな。お母さんなんて椅子から転げ落ちてたし」
た、食べたいもの聞かれたから素直に言っただけなのに。
「そういうときはお寿司とかって答えるもんよ。昔からちょっとズレてるわねぇ」
母がそう言って笑うと、父と妹も「ねー」と同意しながら笑った。つられて私も笑う。家族だからこそできる昔話。
ふわっ、と今の時刻が浮かび上がる。八時半。あぁ、もう模試が始まった。今からでも向かえば最低限の点数は取れる。来月に受験を控えた自分がこんなところでのんびりしていいはずがなかった。
今、ここでこの部屋を抜け出してしまえば。
しかしそれを考えただけで胸が苦しくなった。家族との会話なんていつでもできる。今日模試が終わって帰ってきたらまた話せばいい。分かっている。
窓から入る柔らかい朝日。朝日に照らされるコルクボード。冷蔵庫の扉に引っ掛けられたコルクボードには十枚ほどの家族写真。そしてダイニングテーブルで笑い合う父と母と妹。
たったそれだけのことが、泣きそうになるほど心地がよかった。目を離してしまえば消えてしまいそうな、そのまま私のもとから失ってしまいそうなほどに綺麗な安寧が、ここにはあった。
「あ、そういえば」
何か思い出したように母が言葉を発するのを、私は映画でも見るように眺めていた。
「昨日の夜作った味噌汁が残ってるじゃない。食パンには合わないかもしれないけど消費しないと」
食べかけのパンを皿に置いて母が立ち上がる。コルクボードが引っ提げてある冷蔵庫の扉を開けると、「ほらやっぱり」と鍋を取り出した。
「飲むでしょ? あっためるよ」
コンロに鍋を置いた母がこちらを向いてそう聞いてきた。
うん、飲む。
ほぼ無意識に答えてから、今母が言っていたことを思い返す。作って残った味噌汁……味噌汁?
ハッとしてコンロに置いてある鍋へ意識を移す。寝起きのスウェット姿の母がツマミを回す。中火の青い炎が現れる。稀に夕陽色の炎をまじえながら、揺れながら鍋の底を刺激する。それは母の作った味噌汁を丁寧にことこと温めてくれている。そう、あれは豆腐と小松菜の味噌汁だ。これ好き、と幼い頃さりげなく呟いたことを覚えてくれているからだ。
飲みたい、と思った。強く思った。
改めて意思表示をしようと思い立つ。お母さん、ねえ、私今凄く味噌汁が飲みたいの。お母さんが作ったものが食べたいの。
しかし辞めざるを得なかった。キッチンのすりガラスから差し込む朝日はつい先ほどより格段に強さを高めていて、お玉を持って鍋の様子を伺っている母をよりハッキリ映し出していた。
視線だけ動かして、テーブルについたままの父と妹を見る。一旦笑うのは休憩、といった様子でそれぞれ食事をする二人の輪郭もまた明確になっていることに気づき妙な焦燥感に駆られる。
何かが変わり始めている。この空間はかろうじてのバランスで保たれている、そんな感覚があった。自分が声を発することで、その均衡が崩れてしまいそうで恐ろしかった。
姿勢を直しかけようとして同様の危機感を覚える。とにかく今は何を動かしても危険だと心臓が訴えていた。私はただ、味噌汁を温める母の様子を眺めていることしかできなかった。
ツマミをひねって火が消えた。食器棚から取り出したお椀にお玉で軽く三杯、味噌汁を取り移す母の横顔を見て、あぁ、料理しているときのお母さんはこんな優しい表情をしていたのか、と気づく。
「はい、豆腐と小松菜たくさん入れといたよ」
湯気の立ったお椀と、二、三年ほど前に妹と色違いで買ってもらった青い箸が私の前に置かれる。私の分を準備すると、今度は母自身の分も用意してから席についた。そして流れるように「いただきます」と呟いてから私の物より具の少ない味噌汁を取り始めた。
鍋で攪拌されて反時計回りにぐるぐると回っているスープを眺めながら、私はどうすべきか考える。
身体を動かすことに対する危険信号が脳内を支配している。運動筋肉に指示を出したら均衡を崩してしまうことが、なんとなく分かっていた。分かっていた。
目の前の味噌汁をただ見つめる。自分の身体の動きによって世界の均衡が崩れてしまうことと同じで、この物体から目を逸らせば跡形もなく消えてしまいそうな予感がしていた。なら、このまま見つめたまま動かずにいればいいのかもしれない。しかし。
これを食べたい。母の作った料理が食べたい。お母さんの、お母さんのご飯。
欲求に逆らい難かった。母の作ったものを目の前にしただけで、喪失を予感した怯えと焦燥、それに付随する何かを思い起こさせる悲しさ、そして『母』を追い求める幼心。そういったいくつもの感情が脳と心を駆け巡って、世界への配慮がなくなっていく感覚がして、もう何をどうしたらいいのか分からなかった。
柔らかく当たっていたのにいつの間にか力を強めた朝日が、視界の外にいる家族の輪郭を一段と濃くしていることをどういうことか理解する。猶予はもはや残されていなかった。
手を伸ばす。左手を味噌汁のお椀に添えて、律儀に箸を持つため右手を差し出す。自分の動きが一々もどかしくなりながら、ようやく二つを手に取る。『ピッ』
空気を包み込むような湯気、器の中を漂う味噌、私が好きだと言った豆腐と小松菜。
口にしたい、動けば、すぐ口元へ持っていけば、あの懐かしい味を、どうか今だけでも。『ピピッ』
遠ざかる、何が? 光景が離れていく、ダメなのか、許して『ピピピッ』
「――それすら、許してくれない」
『ピピピピッ』
私は理解した。暗い部屋のベッドで自分は寝ていて、サイドテーブルの目覚まし時計が鳴っていることを。寝言を呟いて目覚めたことを。
『ピピピピピッ』
やかましい目覚まし時計を反射的に手を添えて止める。
「……あー、あー」
自分の声がしっかり声帯を震わせていて、あぁこれは現実だと実感する。目覚まし時計の表示を確認して、今日は月曜日で今は五時半であることを思い出す。とにかくは。
もっそり布団から抜け出し、二段ベッドの一階部分から立ち上がる。二階部分の柵にひっかけたハンガーから制服を引っ張取ってさっさと着替えてから寝室の扉を開く。
まだ誰も起きた気配のない真っ暗な廊下を長年住んだ勘だけで八歩ほど進んでリビング前へ到達する。
少し緊張しながらドアを開けた。
まだ真っ暗な部屋に、溜息か安堵か曖昧な一息を吐く。
外の建物の光を頼りに、さて朝ごはんはどうしようか考える。シリアルを食べるか、ヨーグルトで済ますか。朝からしっかり朝ごはんを作って食べるような時間も元気もないのだ。うーん、食欲もあまりないし、ヨーグルトでいいか。
冷蔵庫の前に立つ。二年ほど前から写真が更新されていないコルクボードが一瞬目に留まるが、無理やり無視して冷蔵庫を開ける。
「ん?」
目の前にラップのかけられたお椀が一つ置かれていた。昨日の夕飯の残りだろうか。
軽いものなら食べさせてもらおうか、という思いでそのお椀を手に取った。重量はない。
「……っ」
お椀の中身を見て息を呑む。
テーブルに器を置いてから、ラップを外して中身を確認する。小さな袋一つと、小さな紙きれ一つ。紙切れには、私に当てられたメッセージが書かれていた。差出人の名前はなくても、筆跡が母であることを知らせてくれた。
『勉強頑張るのはいいけど、ご飯はちゃんと食べること。あんまり帰ってこれなくてごめんね』
小さな袋には『お手軽味噌汁』の文字。
右手に紙切れを握りしめながら床に崩れ落ちた。夢のことを思い出して嗚咽する。感情の昂ぶりに身を任せてぐしゃりと握りしめてしまった紙切れを見つめて、あぁ折角お母さんが書いてくれたのにと後悔する。
私だけが前に進めていない。それがただ酷く、酷く苦しかった。せめて夢の中だけでも、浸らせてくれたって良かったのに。
薄暗いリビングで一人涙をこぼし続ける。ただただ母の作った味噌汁が飲みたいと、それだけを願って。
後書き
3ヶ月くらい前に書き上げていたのに、何故かこちらにアップするのを忘れていました。今までの『愛情不器用』シリーズに含まれない、単体の短編です。
取り戻せない家族のあたたかさって、ありますよね。
あと、そろそろペンネームをちゃんと付けたいです。どうやって付けようかな