五十知命
数字の暗記がからっきしダメだ。
自分の携帯電話番号や誕生日以外を記憶しているのは、母の命日と入籍日と夫の誕生日ぐらい。(夫の携帯番号すら覚えていない)
あ、実家で飼っていた犬の誕生日も。
黒いラブラドールレトリーバー。
「おやつ」「さんぽ」「ごはん」
この言葉をきちんと認識していて、発すればちぎれんばかりに尻尾を振り回して家中を走り回ったものだった。
台所に立つ母の側できちんと座り、じっと見上げていた。その口からは涎が溢れ出し糸を引く。大好物の茹でたキャベツをもらえるまで止まらない。パブロフの犬を見事に体現していた。
さて。
40も半ばになると、もはや自分が何歳になったのかはっきり答えられなくなった。
そして、今年。
ついに50歳を迎えた。節目ということで一応日記として残しておくことにする。
50年。半世紀。文字におこすと重々しい感じがするが。
年齢はさして重要な数字ではない、私にとっては。
「記号のようなもの」と言ったのは夏木マリだったか。
30代後半から人生が目まぐるしく変わった。
自分で選びとってきたつもりが、何かしらの力が働き、動かされてきたという方が、妙にしっくりくるのだ。流されるまま生きてきたと思っていても、すでに結果がそうなるように決まっていたのかもしれないとさえ思えてくる。
夫という最大最強の味方ができた現在、怖いもんなし。
一緒に年をとっていく。なかなかいいものだ。
先日訪れた伊丹十三記念館。
そこには彼の生きざまをこれでもかと見せつけられ圧倒されるも、どこかあたたかいのだった。
今にも「やぁ」と笑いながら彼が現れそうだった。
多彩な趣味にしても「本物」を嗜み、自分のなかに落としこんでいく。時間を厭わず納得するまで探求する。
彼の観察眼には恐れ入る。植物学者の牧野富太郎と似ているなぁ。
好奇心が枯れない人生。
自分の人生、どう生きるかは自分次第だぜと教えられたようで清々しい気分で記念館を後にした。