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プノンペンでの活動を通じて感じたこと・考えたこと

2024.11.1,2 
カンボジアのプノンペンにて、CHANGアジアの子供財団さんの活動に参加させていただいた。
5年前にタイでストリートの子たちを見て以来、「自分にできることって何だろう?」「毎月のお給料から何となく消費しているお金(そこまで強く欲しいと思う物でなくても、無くても特に困らない物でも、何となく購入している)。自分の小さな欲求を満たすために使うお金を、誰かのために役立てられたら。」と考えるようになり、毎月少額だが無理ない範囲でお金を寄付させていただくことにしたのが、この財団さんとの関わりの始まりである。

活動中はファミリーハウスの子供たちと一緒に遊んだり(私は大量のシールを持参した)、散歩をしたり、勉強の様子を見守ったりした。

活動する中で感じたことを書く。

ファミリーハウスの子供たちは、とにかくみんな元気で、よく笑っていた。
バレーボールをしたり、走り回ったり、友達とおしゃべりしながら笑う彼らを見て、ふと、「あぁ、私はいる必要ないんだな」と思った。
というのは、私が特別彼らを笑わせようとか、積極的に何か行動をしなくても、彼らは笑っているのだ。
自分たちでおもしろいことや楽しいことを生み出して(「生み出している」という意識はきっと彼らにはないと思うが)、とにかく、自分たちの力で笑っている。
誰もに備わっているであろう、「自分で自分を満たす力」が大きく発揮されているように感じた。
だから、「子供たちを笑顔にしてあげる」という表現や、物質面だけを我々と比較して「かわいそうな子たち」「恵まれない子たち」という目で見るのは、ちょっと違うように感じた。
(もし自分が逆の立場なら、「かわいそう」「恵まれない」という視線を向けられるのは嫌だ。)

では、本当に「私がいる必要はない」のか。
彼らは自分で自分を満たす力を持っているから、私(たち)は何もしなくていいのか、と自分に問うと、それはそれで違うと思った。
生活面(住居や着るものなど)や教育面など、どうしても彼らの力だけでは満たすことが難しいところがある。彼らの笑顔が続いていくよう、それらの面で力添えをするのが私(たち)の役割なのかもしれない。そう感じた。

そして、これらは、カンボジアに限らず、日本にも同じことが言えるのかもしれない。
日本はカンボジアに比べ様々な制度面は整っているが、子供たちが力を発揮して笑っていられるように、周辺を整えていくのが、大人の役割なのかもしれないなと感じた。

月並みな表現だけれど、彼らと同じ時間を過ごせて本当に楽しかったし、たくさんの元気やエネルギー、学びをいただいたのは私の方だ。
遊んでもらったのは私。
また会いに行きたい。


数か月後、数年後、これを読んだら、何もわかっていなかったなと恥ずかしく感じるかもしれない。恥ずかしいのはとても嫌だけど、そのくらい今と比べて変容があればうれしい。
まだまだ私はわかっていない。
だから、もっと探して、考えたい。

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