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【町のひとインタビュー!No.3】『あじさい祭り』主催者 小菅光夫さん

どんな幼少時代を過ごされましたか?どんな思い出がありますか?

 1950年生まれ、戦後まもなく生まれました。その頃から、秩父の農家はどこでもそうでしたが、あまり良い暮らしではなかったです。うちは養蚕が中心でした。農家は、勉強だけではなく、手伝いが必要だった。蚕に桑をあげたり。そんな風に、親が土と共に生きる姿を見てきた。そのことは、今となったら、凄い貴重な経験をさせてもらったと感じます。

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 光夫さん、幼少の頃

 山、川も身近にありました。魚を獲ってきては食べることで、タンパク質もとってました。山に入れば栗やあけびを取るなど、四季折々を感じました。葉を集めて堆肥にしたりもしていました。そんな風に、自分の周辺の里山は、生活にとって大事な場所だったのです。その当時は、山も本当に綺麗でした。

 また、お祭りも賑やかでした。歌舞伎はお祭りと2つで1つでした。各地区で「歌舞伎」があって、受け継がれていっていました。

 特に、覚えているのは、「津谷木のお天狗様のお祭り」です。5月の12、13日と2日間がありました。それも、お昼頃から、夜の部まで。住まいの下小鹿野から、橋を渡って行きました。そこの地区の人だけでは間に合わないので、色々な地区から集まって歌舞伎を上演していました。 
 舞台のある山の方へ登っていくまでに、何十軒も露天がいっぱいありました。その光景をとてもよく覚えています。露天商は、その灯りで夜まで催していました。男道と女道があり、男道が本堂に連なり、女道はなだらかになっていました。その女道に露天商があったのです。その時の流行歌に合わせて、美しい娘さんが鬘を被り、化粧をして踊っていた光景は、別世界に入ったようで、本当に印象的に残っています。昔の何もない、街灯がなく裸電球の時には、お祭りは特に特別だったのです。

中学・高校時代の思い出はどんなことですか?

 中学時代で美術部に入り、よく絵画の賞はもらっていました。田島先生という方が恩師でした。版画をいっぱい描かせてもらいました。読売主催の全国版画コンクールでは、「3位」に入賞し、1泊2日で帝国ホテルへ行き表彰式に招待してもらいました。
 その時、東京に出て、地下鉄に乗って、昼間なのに急に暗くなったことに驚いたことをよく覚えています。
 また、そのホテルでフランス料理を出してもらったのですが、フォークやナイフの使い方がわからずにじっとしていたら、どんどん料理を片付けられてしまったことも覚えています。(笑)叔母にデパートに連れて行ってもらった時には、「堅やきそば」を頼み、硬さにびっくりしました。

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  光夫さん、中学生時代。自宅の畑にて。

 高校時代は、小鹿野高校で柔道部に入り忙しかったです。講師できていた増田先生という女性の先生が、美術の時間ですごい評価をしてくれて、「美大に進んだ方がいい」と助言をもらいました。
 その頃は、卒業したら役場や農協に入ると考えていたので、そんな選択肢があることを初めて知りました。その先生が、夏休みに毎週面倒を見てくれたことも励みとなり、美術の道へ進む大きな後押しとなりました。

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小鹿野高校時代、仮装行列で光源氏に扮した光夫さん

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高校時代の恩師の先生と、卒業後に合角にて。

そのあとの進路選択は?絵画との向き合い方は?

 親の援助も受けながら、武蔵野美術大学の短大に入りました。 
 今と違いもちろん特急も走っていないので、秩父までバスで出て、寄居まで東上線の電車に乗って、そこからさらに乗り継いで東京まで出ることができました。本当に、遠い東京まで「上京する」という感じでした。

 大学へ行ったら、学園紛争の時代でした。お金を出して勉強して行ったのに、十分に学ぶことができなかったことが悔しかったです。学校に行って勉強できなかったので、古本屋に行って本をたくさん買って、家で絵を描くことをとにかく沢山していました。そんな中で、授業もあまり受けられないまま、卒業となりました。

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小鹿野帰省時。あじさい神社のツツジの前で。

 その頃の気持ちとしては、小鹿野から東京の武蔵野美術の短大に入ったことの見栄もあったと思います。後ろめたさもあり、絵もちゃんとやらなきゃと思い、人一倍やってきた想いがあります。東京での10年間、20代の時は、とにかく絵のことだけをと考えて、描いていました。絵を中心に全ての生活があり、お金が貯まればスケッチ旅行などをしていました。

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九州は長崎。オランダ坂の上のグラバー亭にてスケッチする光夫さん

 28、29歳までは、体調を崩しては東京と小鹿野を行ったり来たりしていました。自分の絵も完成していなかったし、とにかく色々な人の絵を見て吸収したいと考えていました。帰ってきては、お母さんに健康に優しいものを作ってもらったりしていました。

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秩父警察暑裏側の国造様。お正月などに養蚕が栄えるようにお飾り用にお蚕の繭玉が売られていた

小鹿野に帰ってくるきっかけは?帰ってきてみて、地元への見方に変化はありましたか?

 
 30歳の頃、帰省をしました。

 当時、実家は豚飼いをしていました。工業や自由化などの影響で、すぐに農業にしわ寄せが来ることもわかりました。農業生産が国としてちゃんとしていないことも痛感しました。「その時に金を儲かれば良い」という発想に立っていてはまずいとも思いました。そして、土地、山、田畑までも荒れ放題になっていっていることを実感しました。
 こんなに近くで材木がたくさん余っているのにも関わらず、遠くからのものの方が「安い」ものとして取り入れていくことも、おかしいと感じていました。お互いに幸せになるなら良いのに、と思いました。

 他にも、山や、周りに風もあり、贅沢で十分な環境があるのに、そこに投資して大切にしないと、とも感じました。

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札所4番、金勝寺にて。 

 戻ってきて、農家で継続することが難しいと感じたため、絵を子どもたちに教えることを生業にしました。その時に、子どもの頃の経験が全て役に立ちました。「百姓」は、例えば作物にしても 全てのことをできなくてはいけないので、立派な人だと思っていました。造形教室でも、その考え方で行いました。山へ行ったり、川へ行ったり。畑ではじゃがいもを作ったり、竹を切って釣竿を作ることや、山へ行っては栗やあけびをとったり、篠や竹をとって弓矢を作ったり。

 また、竹は、もっと色々なものに活用できると思っています。竹のコップを作ったりと、使っていかないといけない気がします。 捨てても自然に戻るので、そういうところから自然も見直して良いなと思って。子どもの時の自然への思いや体験が甦り、それを子どもたちに伝えたいと思って仕事をしてきました。

 今でも、子育てや学校の先生として、その時の塾で習ったことが役に立っているという声を届けてくれる人もいます。

東京で描いていた頃と、絵画の向き合い方などは変わりましたか?

 帰省後に、歌舞伎と再会を果たしました。それは、一六様のお祭りでした。その時に、歌舞伎舞台の原色の世界に励まされて、歌舞伎を描くようになりました。
 歌舞伎を描くことは、とにかく難しかったです。衣装と身体の線が別なので。動くのでスケッチも難しかったです。1本の線にこだわりました。

 「絵でメッセージを伝えたい」と思ってやってきて、農民シリーズなどで豚などをメインに描いてきました。また、合角シリーズも描きました。合角は景色も広々として、高校時代には何回かスケッチにも行ったし、とっても好きな場所でした。自分が描き残さないと、と思い、8年間かけて描き続けました。そこで、絵も、考えも、変わりました。

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農民シリーズの展覧会にて。

 それまでは、自分の内面を表現するために絵を描き、描きたくなれば毎日でも違うテーマでも描けましたが、合角を描くようになってから、家、古木、石垣など壊されていくものを描かなくてはならなりませんでした。絵を描くことは、それを見続けるということなので、その間に、色々な想いも浮かんでくるのです。また、描いている中で、住んでいる方、お年寄りの方と話すことも多く、その方の想いを代弁するかのように、絵の中に投影していったと思います。

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合角に足繁く通い、合角シリーズを描き始めた光夫さん。 

あじさい祭りを始めることにしたのは?

 絵を描くことは、感じて、それを本当に人に伝えなくてはいけない、という部分があるので、感受性がとっても大切です。「これを、このままにしておくと本当に大変だ」などと思うと、動かずにはいられません。描いて、動く。なので、僕は、なんでも「大事なものを残すために」先陣を切ってでも仲間を募ってやってきました。

 平成17年の暮れに、当時病気療養中の90歳を超えた父に何か生きた証を残したいと思い、あじさいの花を植え始めました。町内のお店で、ありったけの苗を買ってきました。またその時、近くの神社が竹のジャングルとなってしまっていました。そして、そこの草を刈り、綺麗にしようと思ったのです。一度、父も連れてきて見てもらいました。

 そうこうする中で、近所の人たちも手伝ってくれました。なので、お父さんの杭と、手伝ってくれた人の杭も打つようになりました。

 十数株植えたところ、杭が目立ったため、通り過ぎた人が「自分のも植えてほしい」と言ってくれるようにもなりました。竹を切っては開墾して、ということを繰り返しやりました。下小鹿野の村社だったので、地区のみんなも、綺麗にした方が良いとは思っていたんだと思います。

 植えたものは、人に見せる必要があるため、その翌年からお祭りを始めることにしました。無料でたくさんのあじさいを寄付をしてくださる方もいました。無料でユンボを貸してくれる人もいました。いろんなひとが、いろんな協力をしてくれました。

 幼少の頃の里山の風景を、管理しながら多くの人の手で一緒に取り戻すことができたらと願ってもいます。

あじさい祭りを始めてからの、苦労と喜びは?

  やってみせてみることで、始めて理解してもらえる活動なんだと思ってます。感じて、それで動く人が必要だと思います。1番初めに動く人が骨を折れるでしょう。いいことだから、協力しようという人がでてくるには、相当年月がかかることと感じてきました。

 一方で、そんな中で毎月整備活動を一緒にやってくれる仲間も増えていきました。それぞれが特技をもっていて、それを生かしてお祭りをみんなで作ることができることわかってきました。

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初期の頃のあじさい公園造りの有志メンバー 

 そして、人生は人との出逢いだということも実感してきました。そこで繋がりができていくものやきっかけをお互いにもっていると、人生の方向が変わってくるとも思いました。 

 一緒にやっているメンバーとは、「あじさい公園と仲間たち展」をやったり、「あじさい神」を作ったりと、色々な取組を楽しく実施してきました。

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 令和3年。あじさい祭り有志メンバーのご活躍により、あじさい神社整備とあじさい祭りが行われる。

 そして、あじさい祭り本番に、どれだけの人が来てくれるかにかかっていると思っています。その人数が多いか少ないかで、喜びも変わってくると思います。また、それを味わいたくて手伝ってくれている人もいるのかもしれません。他にはみんなで集まって、共同作業をし、1つの憩いの場所を作るために骨を折り汗を流しています。その中で、焚き火で釜を使い、作る料理を味わうということの良さ、これは都会では絶対に味わえないものだと思っています。

 汗を流して料理を味わうという素朴な喜びを味わうことが、一番大事なことだと思っています。きっと、そこに加わる中で、「良いなあ」と思う人がきっと出てくると思っています。

 その中で、「次の展覧会どうしようか」などなど色々な話が出てくるので、「人が集まる」っていうことが大事なんだと思います。 

 そして、こういう時代だからこそ、こういう「遊び」が大事なんだと思います。

これからのあじさい祭り、そして町の未来へかける想いは?

  ただでやる仕事はあって良いと思っています。祭りは、まさにそういうもの。奉仕の心でやってきた。

 そして、祭りは、地域社会にとってとても重要だと思います。コミュニケーションにとっても大切。地域地域で、そういうものがあった方がよいんだと思います。それぞれの地域で、良いものを見つけたり作り出したりしていくことで、小鹿野町の未来は開かれていくと思っています。

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17回目となるあじさい祭りにて、歌舞伎の講演後に挨拶をされる光夫さん

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