【二輪の景色-5】向かう先は決まっている。
その人は、昔、ホンダのテストライダーだった。
「ほら」
泥に汚れた革のツナギを纏い、写真を撮るぞとの号令の元、シャッターが切れるその瞬間まで意識を高め、高揚の頂点で撮られる昔ながらの写真がアルバムに連なっていた。めくってもただ背景が変わっているだけ。撮られる瞬間に向かって意識を高めた顔が次々に現れた。微笑ましかった。それはテストライダーをとらえたアルバムではなく、テストライダー時代のその人の笑顔を集めたコレクションだったから。
テストライダーを卒業して、その人は喫茶店をはじめた。ガレージ付きの喫茶店。
ライダー御用達の喫茶店だった。バイクを停められ、アドバイスをもらえ、ちょっとした困り事なら修理もしてもらえた。
バイクをいじる合間にコーヒー淹れるものだから、クレンザーでゴシゴシやってもオイルが手から抜けきらない。着色されたみたいになっていても、その手は最善を尽くして洗われていることを知っているから、誰もそれを不衛生だと指摘することはなかった。
その人は、英国生のオートバイに乗っていた。資本が変わってロゴはそっくり似せてあるげど微妙に違っている新生のトライアンフじゃない。倒産と再生を繰り返してきた生粋のトライアンフのほうに。
エンジンをかけたところを何度か見たことがある。停めているのにアクセルをふかすだけで移動し始めた。ぶるんとやると、コンクリートの床に引っ掻き傷を作りながら後ずさりしていく。
バイクには乗らないけど近所なので常連の仲間に入りかけたころ「そのバイク、欠陥品?」と訊いてみた。
「ぜんぜん」とその人は否定した。それが正常なのだという。その時私は、なんて不完全な乗り物かしらと心の中で呆れ返っていた。現代は自動運転が視野に入った、快適の上を目指す時代。停めているのに動く乗り物が粗野で野蛮に見えて仕方なかった。
「ホンダのほうがいいんじゃないかしら」と言ってみたことがある。その人は優しく笑って「そうだね」と応えた。それから「ホンダは良いけど、もういいんだ」と続けた。
言い終えたその人の顔に歪んだ苦痛が走ったのを私は見逃さなかった。
「後ろに乗ってみる?」とその人が私を誘った時、私はたじろいだ。
完成されていない乗り物に身を預けるのは無茶で、無謀で、危険へ飛び込む夏の虫で、恐怖を感じたから。でも私は「はい」と答えていた。その人にしがみついていられるのなら、冒険の価値はある。
景色は風だった。ちっとも落ち着いてくれない。街の緑も灰色も赤も青も黄色も、水彩絵の具を流したように尾を引いていく。音も風だった。生身の体がスピードに身を委ねると、これほどまでに激しい抵抗に遭うことを、私はこの時、初めて知った。
でも風の音は、世界を支配するほど偉そうにしていられなかった。風の音の上に、トライアンフというバイクから吐き出される連続したドライなビートが君臨していた。その正常な脈拍のように繰り出される重低音に私は呑まれた。呑まれて陶酔した。陶酔したことを理由に、私はその人にしがみついた。
私はそのようにして、夢の中を走ってきた。あんなに不安だった中途半端な出来の乗り物だったはずなのに、トライアンフのリアシートはまるで高級なソファのような座り心地だった。その人の後ろだったから、というだけではない。ほんとうのことなんだから。
その人に勧められはしなかった。相談したとしても、否定もされなかったと思う。私は大型二輪の免許を取った。取ってから「取りました」と報告しに行った。
意外な顔をされたけれども、すぐに気を取り直して「おめでとう」と祝福してくれた。祝福の言葉はそこそこに切り上げられたけれども、会話は繋がっていく。「で、何にするの?」と訊いてきた。
まだ決めてはいなかった。でも、見た目では判断できないバイクがいいとずっと考えていた。乗って初めてその真価がわかるバイク。その人が乗っていたトライアンフみたいなね。
その人はトライアンフを大事に大切に乗っていることはよくわかっていた。私は、自分を少し試してみたくなって、その人に意地悪を言った。「もう、決めています」
するとその人は嬉しそうに口角をクッと上げ、私の目を好奇の目でのぞいてくる。
「それはね」
「うんうん、それは?」
「マスターのトライアンフを譲ってもらうの」
私は自分を試してみた。深く知られることで真価が発揮される自分、自分にも発揮できる真価というものがあるのかどうかを。その人で。
私は、英国発祥のライディング・スタイル、カフェレーサー・タイプのバイクを選んだ。現行の新生トライアンフ。その人のトライアンフと違って、エンジンをふかしても車体が地面を傷つけることはないし、高速道路を飛ばしても、巡航速度からさらに力強くしかも快適に加速していく力を持っている。
今ではもう、景色が風のように飛んでいったウブな感覚は積み上げた経験によって洗い流されたし、高性能のヘルメットが風切音をシャットアウトしてくれる。実に快適だ。
旧型と違って機嫌を損ねにくいし、始動してエンジンを温めることなくすぐに発信できるフレンドリーさも持ち合わせている。
ハンドル位置が低くステップが後退した乗車スタイルは戦闘的だ。だけど私は元来が飛ばし屋ではない。視線を一段落としたところから、走る先のただ一点を睨むように見据え、ブレることなく走る。速く走らせることはまだできないけど、速く走らなければならないということもない。そんな走りのスタイルを私は今、選んでいる。
その人は私のカフェレーサーをかっこいいよね、と言ってくれる。「どうですか。もう一台。新しいトライアンフなど」と私はその人をからかう。最近ではそんなゆとりの会話もその人と交わせるようになった。でもその人は旧いトライアンフから離れようとはしない。まるで深い契りでも交わしたかのような結びつきで存在し続けている。
私はカフェレーサーに乗りこむたびに、それまで気づかなかったバイクの真価を発見し続けている。道は遠い。
だけどその人が抱えた、かつて顔に歪んだ苦痛を浮かばせた理由はまだ遥か先にあり、その断片さえつかめない。影も見えない。こちらの道はもっと遠い。