マイルドビター・バレンタイン/ベアレン チョコレートスタウト | ニンカシの横顔
「ったく酒に酔ったんだか、物語に酔ったんだかわかりやしねぇなぁ」
常連さんを見送って店の外に出る。2月とは思えない、暖かな日差しの午後だ。
「シゲさん、昼から完全に飲みすぎですよ。角打ちで飲むレベルいっつも越えてますからね」
「じゃあな香月ちゃん。次もいいストーリー仕入れといてくれよ~」
「はい、お任せください!気をつけて帰ってくださいね」
入れ替わりに宅配業者の人が大きな段ボールを抱えてやってきた。
「すみません、お届けものです」
『割れ物注意』とシールが貼られた箱。品名には「グラス」と書いてある。
またグラスだ。受け取りのサインをしつつ、天井に数多ぶら下がるグラスを仰ぎ見てため息をついた。
「ちょっと、オーナー!また新しいグラス届いてるんですけど。置くビールごとにグラスをそろえたい気持ちはわかりますけど、もうこれ以上置くとこないって言ったじゃないですか」
奥の部屋に向かって叫んだものの、なんの返答もなかった。また例のビール研究でもしているのだろう。
「まったく。これ本当どこに置こう」
ため息をつきながらガムテープをびりびりとはがしていると、入り口から中をうかがっている女性の姿が見えた。初めましてのお客さんだ。
いつだって初来店のお客さんの接客は少しだけ緊張し、そして興奮する。
何を求めてここに来たのか。
今どんなことを考えていて、これからどんな気分になりたいのか。
冷蔵庫の中で自分を選んでもらうのを待っているビールたちの息遣いを感じながら、目の前の人の心の声を聞き出し、ぴったりなビールを選ぶ。
「こんなビールがあったんだ」
そう反応するお客さんの驚きには、きっと味以上の何かがある。
新しいお客さんにもそんな体験をしてもらいたくて、わたしは襟元を正した。
「いらっしゃいませ。もしよければ見ていってください」
ドアを開けると、小柄で、ふうわりと柔らかな印象の女性がいた。
「え、あっと、えっと……じゃあお邪魔します」
恐る恐るエントランスをくぐった女性だったが、店内に一歩足を踏み入れると「うわぁ」と小さな声を漏らした。
わたしにはすっかり見慣れた光景だが、初めて来店したお客さんはみな同じような反応をしてくれる。威圧感のある大型冷蔵庫には世界各国、日本各地の様々なクラフトビールがぎっしりと詰まっているし、天井からはビアスタイルに合わせたグラスが釣り下がっている。
そして所狭しと飾られたクラフトビールの空き瓶に王冠。色あざやかなポスター。
まるでおもちゃ箱をひっくり返したような、クラフトビールを愛するオーナーがクラフトビールの本当の面白さと美味しさを広めるために作ったお店、それがここ、ニンカシだ。
「今日はどんなビールをお探しですか?ここにあるのは物語ごと仕入れたオススメのビールばかりです。今のあなたにぴったりなビールをお探ししますので、まずはあなたのことを教えていただけますか?」
つい興奮気味にまくし立ててしまう。
「えっと……あの……」
あまりに圧が強すぎたのか、お客さんが戸惑った様子を見せていると、奥から「ゴホン」という低い咳払いが聞こえた。
さっきは聞こえないふりをしたくせに、ちゃんと聞こえているではないか。
「おっと、失礼しました。ビールを選ぶのも楽しみのひとつ、ですよね。ゆっくりとご覧になってください。何かご質問等あればいつでもお声がけくださいね」
―ビールを選ぶところからビールを飲む楽しみは始まっている。
これはオーナーがいつも口にする言葉だ。だからお客さんがビールを選ぶ邪魔をしてはいけないよ、と。
(初めてのお客さんだとついつい出しゃばってしまうなぁ。グラスの整理でもしておこう)
にっこりと笑ってお客さんに背を向けると、
「あのっ……」
小さな切羽詰まったような声が聞こえた。
「あの、わたし今日贈り物用のビールを探しにきたんです。バレンタインに渡したくて。でもわたしクラフトビールのこと全然知らないので、もし何かおすすめあれば教えていただけますか?」
ふと目を落とすと、手に握られたスマホの画面にニンカシのホームページが見えた。大事な贈り物を購入するためにわざわざ探してきてくれたらしい。
うれしさで胸がいっぱいになる。
「もちろんです!わたくし香月みなみ、全力でお手伝いさせていただきます」
「それで、お相手の男性はどんなビールがお好きかご存じですか?」
ビール選び。それは当たり前だが話を聞くところから始まる。
「それが、あまりよくわからなくて」
ただニンカシのやり方は少しーいや、おそらくかなり変わったやり方だ。
「なるほど、あまり近しい関係じゃないんですか?たとえば、会社の方とか?」
「えっ、はい、上司で。」
少し驚いたような様子を見せながら、彼女は話を続けてくれる。
「今度他の支店に行ってしまうので、気持ちを伝えたいと思って。でも甘いものは好きではないと言うし...」
声色や仕草、服装や表情。わたしはアンテナをフルに立てて可能な限りの情報を掴んで気持ちを推察し、言葉を引き継ぐ。
「手作りのものは抵抗がある?」
「は、はい。でもその人が最近クラフトビールにはまっているという話を聞いて、じゃあビールを贈ろうって思ったんですけど...」
きっとこの人はひっこみ思案なタイプだ。意中の人が他の支店に行くのをきっかけに、やっと勇気を持って一歩を踏み出そうとしているんだろう。
(バレンタイン、甘いものは好きではない、気持ちを伝えたい、クラフトビール好き)
話を聞きながら出てきたキーワードを頭の中で整理しつつビールを思い浮かべる。それがニンカシのビール選びだ。ビールの持つ味や物語とお客さんを重ねて最適な一本を選び出す。
「でも、本当に渡すかどうかはまだ迷っているんです。わたしなんかからもらったら迷惑かもしれないな、とどうしても思ってしまって」
はたして目の前の愛らしい彼女は見事なひっこみ思案だった。
「どうしてですか?」
ビールの候補を探すのを中断し、耳を傾ける。
「その人、すごくモテるんです。会社にも狙っている女性はたくさんいて」
「おぉ、それはすごいですね。仕事ができるイケメン!って感じですか?」
「イケメン...かどうかはわからないですけど、はい。でも全然威張っていなくて。ユーモアがあって優しくて」
彼女は少し頬を蒸気させて続ける。
「わたしの仕事のフォローもいつもしてくれるんです。どんなに忙しくてもいつも笑顔で」
恋する女性の話は聞いているだけで幸せになるものだ。自然とこちらも笑顔になってしまう。彼女が思い切りが持てない理由もよくわかった。
「出会ってからどのくらいなのですか?」
「もう3年になります。入社したてで何もわからなかったときから、いろいろと面倒を見てくれた人なんです」
「え、じゃあ3年も片思いを!」
「いえ、自分の気持ちにはっきり気づいたのは最近で。」
誰だって「今の関係が壊れるかもしれない」と思うと臆病になってしまうものだ。明日からどんな顔をして一緒に仕事をすればいいかわからなくなると思うと、好きだという自覚を持つこと自体に勇気がいる。
「でもこれはただの憧れだって自分に言い聞かせていました。自分の気持ちをセーブしていたんだと思います」
そういうと彼女は下を向いてしまった。
憧れからゆっくりゆっくりと育っていった、花開くのに勇気が必要だった少しだけ苦い恋。
彼女の背中を押してあげられる口実と一緒に、頭の中に一本のビールが浮かぶ。
「もしよかったらこの場で飲んでみませんか?ビール。うちは角打ちって言って、買ったビールをこの場で飲めるので。ほら、飲んでおいしければ『おいしかったからぜひ』って勧めやすいでしょう。『バレンタインだから』って気負わず、お世話になったお礼に美味しいビールを、と思えばプレゼントしやすいんじゃないでしょうか」
「たしかに……」
「では、バレンタインにぴったりのビールをお持ちしますね」
ビールの女神よ、恋する彼女に少しだけ勇気を分けてください。
わたしは冷蔵庫からビールを取り出すと、彼女の前に置いた。
小さな草花で彩られた、かわいいクマのラベル。
「こちらはベアレンのチョコレートスタウトです」
すると彼女が少し困惑したように言った。
「あの、その人は甘いものが苦手で」
「確かに名前だけ聞けば甘そうですよね。でもこのビール、チョコレートは一切使用していないんですよ。まずは飲んでみてください」
瓶を開けグラスに注ぐ。深いキレイな漆黒の液体。泡は濃い褐色だ。離れていてもグラスからブラックコーヒーのような香りが漂ってくるのを感じる。
「さぁ、どうぞ。ゆっくりとお楽しみください」
そう言いながら、彼女は恐る恐るグラスに口を付けた。
ごくりと飲み込んでからの一拍の間。緊張の瞬間。
「うわぁ……おいしい。なにこれ。わたしがいつも飲んでるビールと全然違う!」
彼女の表情がぱっと明るくなった。
「苦いのになんだろう、まろやかで濃厚で。あと泡もすごくもっちり」
「ふふ。よかったです。気に入っていただけたようで」
うれしくてついつい拍手をしてしまう。
「すごい、まだしっかりと余韻が残ってる……でもこれってチョコレート使ってないんですよね?なのになんでカカオみたいな味がするんだろう」
そう言って、確かめるように何度も何度もグラスを口に運んでいる。
「じっくりと焙煎したチョコレートモルトによって、ビターチョコレートのようなちょっとスモーキーで豊かな風味を感じる重厚なスタウトになっているんです。あ、モルトというのは麦芽のこと、つまりビールの原料ですね。麦芽を時間をかけて焙煎していき、焦げが出る直前を見極め仕上げる、そんな職人の技によってつくられているビールなんですよ」
「へぇ。ビールって色々あるんですね。わたし普通のしか飲んだことなくて」
にこにこと再びビールを口にする。
その後彼女はグラスを両手で包み込み、黙り込んでしまった。
(お相手の方とできれば一緒に飲めたらいいな、考えているのはそんなところかな)
わたしは再び冷蔵庫へと向かうともう一本のビールを取り出した。
「あの、このビール買います」
しばらくすると決意をした様子の彼女が言った。
「ありがとうございます。もしよければこちらもご一緒にいかがですか?」
用意しておいた別のビールをテーブルに置く。同じクマの、白いラベルのビールだ。
「こちらは同じくベアレンのミルクチョコレートスタウトです。先ほどのチョコレートスタウトに乳糖を加え、少し苦みを抑えたものになります。まろやかで、別の美味しさがありますよ」
「じゃあそれも飲んでみようかな」
「いえ、こちらはここでは飲まず、お相手の方と一緒に飲んでみてください」
驚いた顔の彼女にわたしはにっこりとほほ笑みかける。
「片方飲んだことがない方が、一緒に飲む理由になりますよ。お酒はぜひ『いい言い訳』に使ってください」
「え、あ、でも……」
「お包みは別にしておきます。もし渡せなければご自分へのバレンタインにしてください。頑張ったご褒美として。いかがですか?」
「……はい」
彼女はすぅっと息を吸い込むと小さく頷いた。
「あの、もう一口ビールを飲んでみてください。きっと驚くと思いますよ」
わたしは女性の前にグラスを差し出した。
グラスに口を付けた女性は「あ」と小さな声で言った。
「さっきと味が全然違います。少し甘くなったみたい。口当たりも柔らかくなったような気がします。おいしい」
女性の頬が緩む。
「クラフトビールは温度によって味わいが変わるんです。特にスタウトは顕著に。時間をかけてゆっくりゆっくり1本を楽しむ。そんな飲み方も楽しいものです。いまのお客様の気持ちを伝えるには、このビールがぴったりだと思います。クマも応援していますよ!がんばってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
***
キレイにラッピングされたクラフトビールの紙袋を携え、わたしは店を後にした。いつの間にか日はとっぷりと暮れ、空は薄青くなっている。
わたしはコートの襟を掻き合わせ、駅への道を歩き出した。
「チョコレートスタウト、美味しかったな」
あの時飲んだビールは途中から明らかに香りや口当たりが柔らかくなり、甘みも少し増していた。
『クラフトビールは温度によって味わいが変わるんですよ。時間をかけてゆっくりゆっくり1本を楽しむ。そんな飲み方も楽しいものです』
香月の言葉を思い出す。
異動が決まる今の今まで、気持ちひとつ伝えられずに来てしまった。自分の中の憧れだった気持ちが少しずつ恋に変わっていって、「好きだ」と気づいてしまったあの日の感覚。
ゆっくりゆっくり育っていったわたし気持ちを伝えるには、確かにこれ以上の贈り物はないように思えた。
ビールのアルコールのせいだろうか、身体の中が暖かい。わたしは自分の中に灯った光を見失わぬよう、目を閉じ小さく深呼吸をした。
「うん……大丈夫。きっと」
バレンタインはもうすぐだ。
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