和醸良生 /TOSACO 和醸ケルシュ | ニンカシの横顔
初夏の気持ちの良い夕暮れ時。
まだまだ強さの残る日差しの下、窓の外では木々が大きく揺れている。
「みてぇ。この子わたしの孫なのよ。わたしももうおじいちゃんなの」
「かわいいですね。ちっちゃな手!」
常連客である原さんのスマホ画面をのぞき込んでいると、ほろ酔いの女性がふらふらと店の中へと入ってきた。
「すいませぇん~クラフトビールを買いたいんですけど」
サマーニットのトップスに、ダメージジーンズ。アップにした髪は、ところどころほつれている。
「いらっしゃいませ、ようこそニンカシへ」
だいぶ飲んでいるのだろう。女性は店内に置かれている無数のクラフトビールグラスや、壁一面の冷蔵庫にぎっしりと詰まったビールを見ながら、「おお」とか「わぁ」などと呟きふらふらとしている。
「どうぞごゆっくり見ていってください」
香月がドアを閉めようと入り口に近づくと、いきなり女性がくるりと香月の方を振り返って言った。
「あのう~今度結婚の挨拶に行くんですけど。うっかり義両親に嫌われちゃうようなクラフトビールが欲しいんですよねぇ~」
「え……?」
女性の発言の意味が分からずフリーズすると、女性はおかしそうに笑いだした。
「あはは、すみません!そんなんいきなり言われたって意味わかんないですよねぇ。あはは」
香月は思わず、原さんと目を見合わせた。原さんは「あらまぁ」といった表情で、少しだけ肩を持ち上げる。
「まじでわたしだって、わかんないんですよ~。一体どうしたらいいかなんて……」
あはは、と笑うと女性は苦しそうにため息をついた。
泣いていたのだろうか?俯いた目元は少し赤みを帯びている。
香月は小さく息を吸うと、女性に向かい静かに言った。
「ここニンカシでは、お客様にあったクラフトビールをご紹介させていただいております。そのためにお客様のことを少しお聞かせいただけますか?」
グラスに水をなみなみ2杯。
女性はゆっくりゆっくり時間をかけてそれを飲んだ。女性が口を開く頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「先ほどは、あの、酔っぱらってしまっていて、すみませんでした……」
だいぶ正気に戻ったのだろう。女性は少し恥ずかしそうに言う。
「いえいえ。こちらはなにも。本日はクラフトビールを探しに来てくださったんですよね」
「はい。ランチを兼ねて近くのカフェで食事をしていて、友人からこのお店のことを聞いたので。彼のご両親がクラフトビール大好きらしくて、だったら手土産にちょうどいいかなって」
女性は空になったグラスを落ち着かなそうに手の中でもてあそんでいる。
「最初は一杯だけのつもりだったんですけど、気づいたらたぶんワインボトル1本くらい空けちゃってて。だからわたし変なこと言ったかもで、すみません」
「気になさらないでください。素直な気持ちを解放してくれるのもお酒の力ですから。それで、どのようなビールをお探しですか?たしか結婚の挨拶に行かれるとか…」
「はい」
女性が呟くように頷く。
(結婚するのに全然嬉しそうではない)
香月は相手の様子を素早く観察する。幸せに満ち満ちているはずの女性は、なんだかとても疲れて見えた。
(…迷い、か)
「あなたマリッジブルーってやつ?」
香月が言葉を選んでいる側で、いきなり原さんが突っ込んだ。女性の事情に興味深々で、酔いが覚めるまで横で延々と飲み続けていたものだから、だいぶいい感じに出来上がってしまっている。
「……マリッジブルーというか、プロポーズ自体をお断りしようかどうか迷っていて……」
女性はそこまで言うと、苦しそうに黙り込んでしまった。
この女性に必要な出会いは、どの一本なのだろう。
香月はちらりと冷蔵庫の中のビールたちに目を走らせた。
ニンカシでは、ビールたちの持つ物語や味とお客さんを重ね合わせ、最適な一本を選び出す。
「よければまずはお客様へのビールをお勧めさせていただけませんか?このスペースで飲んでいただくことも可能なので」
女性は一瞬驚いた顔をしたが、黙ってこくりと頷いた。
「いいですね。まだ飲みたい気分なんで」
「ありがとうございます。ここニンカシでは、物語と一緒に仕入れたビールを多数ご用意しております。お客様にあった一本をご提供させていただきますので、お客様のお話をもう少し聞かせていただけますか?」
「つい先日、1年半付き合った彼氏にプロポーズされたんです。サプライズで乗ったヘリコプターの中でダイヤの指輪をもらいました」
女性はぽつりぽつりと、でも一度話し出すと止まらないという風に話し出した。
「すごいプロポーズですね」
「まるでトレンディドラマみたいね!彼、絶対ロマンチストでしょう!わたしの若い頃にそっくり」
初めに「川村茜です」と名乗った女性は、都内で子供服のデザイナーをしているという。
「そうですね、ロマンチックすぎてプロポーズされたときに返事より先に爆笑してしまいました。わたしには似合わないって。そしたら彼もいっしょに笑ってくれて」
「素敵な彼氏さんですね」
「はい、とっても。でも……」
そこで一瞬言葉が詰まる。
「でも……現実的に考えれば考えるほど、結婚はできないんじゃないかと思ってしまって」
茜は悲しそうに目を伏せた。
「彼、幹部自衛官で、転勤族なんです。一年から二年周期に全国転勤をするらしくて。いままでずっと遠距離恋愛で、今回彼が東京に移動になったタイミングでプロポーズされたんですけど、一年後には日本のどこかに転勤になるんです」
「1年スパンでの引っ越し…それは大変ですね」
「わたしいま、ずっとやりたかった仕事にやっとチャレンジできる時なんです。やっとチャンスがいろいろ回ってきているんです。才能なんてもんはわたしにはなくて、でもずっとずっと努力してきてやっと「きっかけ」を掴んだんです。でも……でも彼と結婚するってことはそういう自分が積み上げてきたいろいろなものを全部捨てなきゃならなくて」
茜は息をつぐ。
「もう東京に10年以上住んでいて、友人だってみんなここにいるんです。結婚して、子供を産んで。彼の転勤に付き添い、家を守り、彼と供に歩んでいくためには、仕事も友人も自分のいままで築いてきたもの全部捨てなきゃならないんです。わたしには……そんな覚悟はない。だからいっそ、彼のご両親に嫌われたらって、そう思ってしまって」
ぐうっと苦しそうに息を吐く。
「子供服のデザイナーをしているから彼はわたしのこと勝手に子供好き、って思ってますけどね。本当はぜーんぜん好きじゃない。友人からはよく、茜には母性のかけらもないって言われます。子供にも動物にもまったく好かれないんですよ、わたし。でも彼のイメージしている結婚像には、子供3人くらいいるんですよ。きっと」
「彼とは、結婚について話し合ったの?仕事はどうするか、とか子供はどうするかとか」
「彼はわたしがプロポーズ断るなんて1ミクロンも思ってないんです。だから全然そのことを話す雰囲気にならなくて。彼の中ではふたりの「未来」が勝手にどんどん進行してるんです。わたしはそれが辛い」
「そうでしたか……」
(結婚、迷い、仕事、友人、未来)
様々なキーワードと共に、茜の苦しそうな顔を見つめる。
(あのビールに、託してみるか)
香月は冷蔵庫の前に移動をし、深呼吸を一つ。姿勢を正し一本のビールを取り出した。
しっくりと手になじむ、白いラベルのビール。
ビールの女神よ、彼女に少しの「言葉」をお与えください。
「お待たせしました」
香月は女性の前に一本のビールを置いた。
「正直わたしは結婚生活についてなにもわかりません。どのような苦労があるのかも、どのように皆さんが乗り越えていくのかも。でも、わたしはこのビールが代わりに語ってくれるんじゃないかと思っています」
シンプルな白いラベル。一本の麦を挟み、ふたりの人間が躍るように見つめ合っている。
「これは高知県のTOSACOというブルワリーの、和醸ケルシュというビールです」
女性は黙ってビールを見つめている。
栓を抜き、少し濃いめで美しい黄金色の液体をグラスに注いだ。ほんのりとあんずを思わせる優しい香りが漂う。
「まずは何も考えずに召し上がってください」
女性はグラスに鼻を近づけると、ぐいっと一気にグラスを煽った。細い喉が上下に気持ちよく動くのが見える。
「……」
女性はしばらくぼんやりと空中を見つめながら、舌で口の中に残った味わいを確かめていたが、ポツリと「おいしい」と呟いた。
「キレがあるのに、麦の芳醇なうまみやこっくりとしたコクがありますね。こんなビール初めて飲みました」
茜は不思議そうにグラスの表面をなでると、再びグラスに口を付けた。
「このビールは高知で開発された日本酒酵母を使って醸造したビールなんですよ」
「へぇ……日本酒酵母、ですか。だからなんだか吟醸感があるんですね」
今度は香りを確かめるように、グラスに鼻を近づける。
「はい。最初に感じるあんずのような香りとコク、これは日本酒酵母によるものです。そして先ほどお客様がおっしゃっていた“キレ”、これはビール酵母によるものです。このビールは日本酒酵母とビール酵母がタッグを組み、お互いに良さを引き出し合った結果生まれたビールなんですよ」
「香月ちゃん、わたしにも一本頂戴ね!」
原さんは冷蔵庫を勝手に開けると、和醸ケルシュを取り出し栓を抜いた。
「ん~いい香り。お互いに足りないところを補い合いながら、いいところを引き出し合う。日本酒酵母とビール酵母が和をもって醸すビール、まさに和醸ケルシュね!」
原さんが嬉しそうにグラスを空ける。
「”和”ですか……」
茜は小さく笑ってグラスに口を付けた。
「プロポーズの話をしたとき、母に言われました。家庭っていうのは“和”が大切なのよって。女が家庭の“和”を作りなさい。そのためには少しの我慢が必要よ。あなたが雅之さんをしっかり立てて、居心地のいい家庭をつくるのよって」
茜が唇を噛みしめた、その表情をみて原さんがあからさまにぎょっとした表情をする。
「げ……あんたのお母さん、わたしより年下よね?!とんだ時代錯誤もいいところね。いい?家庭に大切なのは、それぞれが皆ハッピーであること、ただそれだけなのよ。誰かが我慢している状態で“和”なんて生まれっこない。家族というのはひとつの単位でしかなくて、皆が個々に自由であるべきだとわたしは思うわよ。バツ2で、現在最愛の妻と絶賛新婚生活中のわたしが言うんだから間違いないわ」
ふんっと鼻息荒くビールを飲む原さんを、茜はしばらくきょとんと見ていたが「そういうものなんですかね」と少し吹き出した。
「皆が気持ちの良い状況でいられることが、わたしも“和”なのだと思います」
香月はふたりのグラスにビールを継ぎ足す。
「ブルワーの方は、この日本酒酵母を使い、初めヴァイツェンを造ろうとしたそうです。この酵母を使った日本酒の特性が「バナナ香」なので、ヴァイツェンとの相性がいいと思われたそうで。でも半年近く試行錯誤したものの、ヴァイツェンの醸造方法では日本酒酵母の魅力を十分に引き出し切れなかった。日本酒酵母が気持ちよく働けなかったんですね」
茜はグラスを手にしたまま、黙ってこちらを見つめている。
「日本酒酵母は、簡単にいうとすごく上品な酵母なんです。醸造工程で小さな糖を丁寧に丁寧に食べていく。それがヴァイツェンの醸造工程には合わなかったんです。そこで低温でじっくりと醸造するケルシュというビアスタイルに変えたところ、バチっとハマった一本ができたとのことでした。酵母がその魅力を発揮できるよう、環境を変えてあげたんです」
香月は小さく息を継ぐ。
「先にも言いましたが、わたしは結婚をしたことがないのでビールの話しかできません。でもこの日本酒酵母のように、自身を丸ごと受けれてもらって活き活きと自分の魅力を発揮できる関係だったら最高の家庭なのだろうな、とは思っています」
「……自身を丸ごと受け入れてもらう……」
「はい。酵母と同じく、人にも向き不向きがあります。不向きな環境でいくら頑張ったって辛いだけですから」
「そうね、香月ちゃんの言う通りよ。まずはあなたのことをぶつけてみるのが大事なんじゃない?それでダメなら、まぁ仕方ないってことで」
原さんが茜の背中をバンっと叩く。
「どんなに惚れた男でも、自分の腹に一物抱えて結婚したら、どうせ後からぐじぐじイライラしてうまくいかなくなるのよ。バツ2のわたしが保証するわ」
「ちょっと原さん…そんな不吉な…!!」
慌てて止めに入るも、茜は考え込むようにして、ビールのラベルをじっと見つめ続けていた。
しばらくすると小さく頷き、ぐうっとグラスを飲み干す。
「たしかに、おっしゃる通りです。わたし……一度彼とちゃんと話してみます。このビール、あと6本いただけますか?」
一度覚悟を決めたら幾分すっきりしたのだろう。原さんと談笑する茜の声を聞きながら、香月はビールを一本一本箱に詰めた。
「和をもって醸した酒はよい酒となります。そしてよき酒は和を醸します。あなたたちどうかよろしく頼みますね」
窓の外に目をやると、暗い夜空にまんまるの月が浮かんでいるのが見えた。
***
「ええええ?!茜そんな風に考えてたんだ!!!」
ニンカシで購入したビールを持って、その足で彼の部屋へと向かった。まだ段ボールだらけの雑多な、でも彼のにおいがする部屋。
彼は和醸ケルシュを「うまい、うまい」と言いながら飲んでいた。4本が空き、そしてそれぞれが最後の1本を手にした頃、茜は胸にためていた想いを吐き出した。
―仕事は辞めたくないこと
―転勤は嫌なこと
―友人と離れたくないこと
―子供が欲しいかどうかはわからないこと
―だから…結婚することを迷っていること
―でも…あなたのことは好きなこと
彼はしばらく黙って眉間にしわを寄せて考えていた。5分、10分……
カーテンの隙間から青い月が見えている。
(やっぱり無理かもな…だってわたしの希望では彼の理想とする結婚にはならない)
でも
茜は瓶のままビールに口をつける。でもビールは変わらず美味しかったし、強がりではなく後悔は微塵もなかった。
「……じゃあ俺、転職しよっかな」
「?! はぁ?!」
覚悟は固まっていた。
だから、だいぶ長い沈黙の彼の一言には虚をつかれ、咄嗟に変な声が出た。
「だって俺、茜と結婚したいもん」
「ちょ…え?だって、まさくん自衛隊に入るために防大いってたよね?今までだって散々苦労して訓練して…」
「もちろん仕事は大切だよ。プライドを持ってやっている。でもいま考えてみたけど、今のおれにとって茜ほど大切なものはない」
「ちょっと、そんな軽々しく…」
「軽々しくなんて発言していないよ。よく考えた結果」
「いや、でもちょっと待って。わたしのために仕事を辞めるとか、そういうの求めてるわけじゃなくて……ってかわたしと結婚するために仕事辞めるとかそういうのはなし!無理!」
茜は首をぶんぶんと振る。
「雅之は雅之のためにちゃんと生きて欲しいっていうか、ちゃんと自分のやりたいことやって欲しい」
「ありがとう」
雅之はにっこりと笑う。
「ねえ茜、それは俺も同じ気持ちだよ。茜には自分のために生きて欲しいし、ちゃんと自分のやりたいことをやってほしい。俺、どうやってプロポーズするかでいっぱいいっぱいで、茜がどう思うかちゃんと考えられてなかったね。ごめん、そして話してくれてありがとう」
雅之はまっすぐにこちらを見つめてくる。射貫くような真剣なまなざし。
「これからさ、どうやったらお互い楽しく一緒に居られるか考えていこうよ」
その一言にぐっと胸が詰まった。
そうだ、この人はこういう人だった。
いつだってわたしのことを真剣に考えてくれる人なんだった。
「あはは」
茜は笑いながら雅之にしがみついた。分厚くて、あたたかな背中に手を回す。
「……なんだか気が抜けちゃった。まさか雅之から転職って言葉がでるなんて思ってもみなかったよ。そだね、これから1年あるし、一緒にふたりの道を模索しよっか」
「え、ちょっとなんで泣いてんの」
お互いが自身をまるっと受け入れあえる家庭
それがわたしたち二人にはどんな姿か、まだ想像もつかないけれど。じっくりゆっくりと醸してければいい
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