エッセイ「ムージルのように書きたい」
ロベルト・ムージルの『特性のない男』は、世界で何番目かに長い小説だと思うが、その第一章、題して「注目に値することだが、何も起こらない第一章」は次のように始まる。
「大西洋上に低気圧があった。それは東方に移動して、ロシア上空に停帯する高気圧に向かっていたが、これを北方に避ける傾向をまだ示してはいなかった。等温線と等夏温線はなすべきことを果たしていた。気温は、年間平均気温とも、最寒の月と最暖の月の気温とも、そしてまた非周期的な月の気温の変動とも、規定どおりの関係を保っていた。日の出と日の入り、月の出と月の入り、月、金星、土星環の位相、ならびに他の重要な現象も、天文学年表中の予想と符合していた。大気中の水蒸気は最高度の張力をもち、大気の湿度は低かった。以上の事実をかなりよく一言で要約するとすれば、いくらか古風な言い回しにはなるけれどもーそれは、一九一三年八月のある晴れた日のことだった」(加藤二郎訳)
この感じ、好きである。たしかに「何も起こらない」を描いたような箇所である。エンタメ系の作品ではまず味わえない、悠然とした出だしである。
このあとの続きを、二段組300ページ全6巻、最後まで読むかどうかはちょっと措かせていただくとして(笑)、私は次のような「瞬間」を言葉で描くことに憧れをもつ。それは例えば、静電気がパチっとする一瞬であったり、あるいは信号待ちをしていて、赤信号をじーっと見ていて青になった瞬間、「歩け」という指令が脳から足へと伝達される、あの一瞬だが確実に長さを持ったあの時間、そういった「瞬間」である。それらをいたずらにダラダラと描写してみたい気持ちにかられるときがあるのだ。ムージルのこの部分を読んで、その自分の欲望と少し近い感覚を持った。
私はここのところ「小説」と題したものをしばらく書いていない。正直言うと、少し怖くなってしまったのだ。理由はよくわからない。偉大な作品を読めば読むほど書けない気持ちが高まってくるし、詩に関しては完全に「低クオリティー上等宣言」を行っているためいくらでも書けるのだが、小説となるとなにか自分の中にバリアがあって、そこを突破できていないのかもしれない。ムージルを書き写してみて、ますますその無理感は自分の中で高まってしまった。
ムージルで言えば、私の愛読する古井由吉氏は、ムージルの『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』などを翻訳する過程で、自らの言語が軋むような体験をし、そこから創作の道へと入っていったという。東大の独文科を出られた古井さんがどれほど壮絶に言語と格闘したか、私は漠然と想像するしかできないが(その訳本を文庫にする際にまた大きく手を入れたそうだ)、ともかく易きに逃げてはいけない、と常に思っている。筆を簡単な方へ、簡単な方へ進ませるのはたやすいが、常に言語に対して緊張状態を保っていたい。そんな高いハードルを自らに課すから、きっと小説が書けないのかもしれないな。急にハンドルを切ったような結論になるが、もっと力を抜いた小説もまた書いてみよう。