「ボカロ踏み台論」再考
まえがき
今年も「マジカルミライ」の時期が近づいてきました。今年で12回目の開催となりますが、恥ずかしながら今回が初めての参加になります。「砂の惑星」をきっかけに、ボカロ曲を聴くようになって早数年経つのですが、音楽は好きだけどライブには興味がないという考えを持っていたこともあり、今までライブに参加したことはありませんでした。
しかし、今年になって音楽を投稿し始めたことで、ライブとはどういうものなのか気になり始めたので、いくつかライブに応募してみたところ、運よくマジカルミライに当選しました。当選発表の頃には、既に楽曲コンテストは終わっていましたが、プログラミングコンテストの方は募集が始まったばかりだったので、こちらに応募することにしました。
8月8日に入選作品の発表がありましたが、残念ながら落選してしまいました。興味のある方は入選作品や僕の作品を確認してみてください。落選したものの、とりあえず簡単な解説を書いて作品を供養したいと思います。解説を書くにあたって、ボカロに関する情報を調べていたら、考察が書けそうなくらい資料が集まったので、ついでにボカロの歴史考察もしていきます。むしろ、考察の方が圧倒的に長くなってしまいました。
作品解説
プログラミングコンテストで使用する楽曲は、先に開催されていた楽曲コンテストの入賞作品[1]の中から選ぶことになっており、今回は2ouDNSさんの「The Marks」[2]を選びました。楽曲のクオリティもさることながら、テーマ設定に興味を惹かれたからです。
ボカロの二次創作では、ボカロが主人公のことをマスターと呼ぶ姿がよく描かれ[3]、実体のある身体を持っていることがほとんどです。一方、「The Marks」では、人工知能としてのボカロを想定し、実体のある身体も自発的な言葉も持たない存在が愛に強い関心を持つという、SF作品のような世界観を提示しています。人工知能が人間の感情に関心を持つというような設定はSF作品ではよく見られますが、その設定をボカロに適用した作品はあまり例がないと思います。
この曲のテーマをアプリ上で表現する方法を模索した結果、初音ミクとプレイヤーが互いに愛を伝え合う3Dゲームを開発しました。3D空間内で初音ミクが曲に合わせて踊りながら、頭上に表示される歌詞によって愛を伝え、プレイヤーは初音ミクに向けてハートを投げることで愛を伝えます。曲のビートに合わせてハートを投げると、得点を稼ぐことができるというリズムゲーム要素もあります。
初音ミクの3Dモデルには、レーシングミク2022のMMDモデル[4]を使っています。一人称視点で自由に動き回れるので、モデルをいろんな角度から眺める楽しみ方もできます。特に髪の毛やボディースーツの質感は目を見張るものがあると思います。曲が流れているときは、初音ミクがプレイヤーを視線で追従してくるので、停止中の方が観察しやすいです。
言葉だけではゲームの内容を伝えきれないと思うので、ぜひ上記のXの投稿内のリンク先でプレイしてみてください。プレイが終わると、以下のような結果の画像を生成して、Xに投稿することもできます。
ボカロの歴史考察
黎明期
ボカロの誕生は2000年代前半に遡りますが[5]、便宜上ボカロの代表格である初音ミクの登場から歴史を振り返っていきます。黎明期には初音ミク自身をテーマにしたキャラクターソングが多く投稿され、曲を通じて彼女のキャラクター性が少しずつ形作られていきます[6]。初音ミクには意図的に最低限の公式プロフィールしか与えられておらず、クリエイター側に創作の余地が大きく残されていた[7]ことにより、現在に至るまで、音楽に限らず様々な形で創作の連鎖が続いています。
一方で、初音ミクの登場から約3か月後の2007年12月に投稿された「メルト」[8]に代表されるように、当時大半を占めていたキャラクターソングだけでなく、彼女とは直接関係のない内容をテーマにした曲の投稿も増えていきます[9]。ネット上で活動する音楽クリエイターたちが、人気が高まりつつある初音ミクに自分の曲を歌ってもらうという流れが生まれ、彼女のキャラクター性が確立してきたこととも相まって、ボカロという機械的な存在を超えて、一人の歌手として受容され始めたことが窺えます。
キャラクターソングに話を戻すと、2008年4月投稿の「初音ミクの消失(LONG VERSION)」[10]は、悲観的かつメタ的なキャラクターソングとして捉えることができます。歌詞を見ると分かるように、初音ミク自身がボカロという存在を「所詮 ヒトの真似事」、「人格すら歌に頼り」、「人間(オリジナル)にかなうことのない」などの言葉で悲観し、人間に対する強い劣等感を語っています。初音ミクが人間に対して劣等感を抱く理由は、ボカロが人間に操られるだけの存在に見えるからだと思います。しかし、初音ミクの登場によって生まれたボカロ文化のおかげで、ネット上のクリエイターが自分の作品を多くの視聴者に届けられるようになったということを考えれば、すべての始まりである初音ミクはどの人間にも不可能な偉大な役割を果たしており、人間に操られるだけの存在であるはずがありません。人間が初音ミクの功績と存在に大きく依存しているにもかかわらず、彼女は一方的に人間に操られていると、彼女自身が勘違いしているわけです。
黎明期に「初音ミクの消失」が提示した初音ミクと人間(ボカロとボカロP)の関係性という問題意識は、2019年に話題になった「ボカロ踏み台論[11]」において再燃することになります[6]。ただし、Xで「ボカロ 踏み台」と検索してみると、同じような主張を2010年から確認できるため[12]、2019年に初めて出てきたというわけではないようです。この主張については、時系列を考慮して最後に考察します。
10周年 「砂の惑星」
一気に時間を進めますが、初音ミクの登場から10年目の2017年に投稿された「砂の惑星」[13]は、「マジカルミライ 2017」のテーマソングとして制作されました。制作者のハチは、テーマソングの制作依頼を受けてからニコニコ動画を見直していた時に、自分が投稿していた時期と比べて、ニコニコ動画自体がどんどん砂漠になっているというイメージを抱き、その光景を表現することに意味を見出したと語っています[14]。実際、2017年頃のボカロ動画投稿数は下り坂の底に位置しており[15]、ボカロブームの光景を最前線で目にしていたハチからすれば、砂漠のように見えたのかもしれません。しかし、当時のボカロシーンは投稿数こそ落ち込んでいるものの、再び盛り上がりを見せ始めていた時期でもありました。ハチもそのことを認識していましたが、それでも物足りなさを感じていたようです[16]。
ハチはこの曲を作る際に、速いテンポがボカロ曲の一つの定番になっているのに対して、あえて遅いテンポを選び、ニコニコ動画ではあまり見られないヒップホップ要素を取り入れたと語っています[14]。最初のブームが過ぎ去り、ボカロというジャンルが確立してきた中で、その立役者の一人であるハチがこれまでとは大きく異なる音楽性のボカロ曲を提示したことには、次のブームへの期待を込めた置き土産としての意味合いがあったのだと思います。最初のブームに比べれば砂漠のような状況だと、ヒップホップの煽り文化に倣って手厳しく批判してはいるものの、曲の後半の歌詞からは多少投げやりな言葉ではありますが、新しい世代への期待を感じ取ることもできます。
当時、この曲の扇動的な歌詞に大きなショックを受けた人もいると思いますが、ハチ自身は否定的な反応も予想しており[17]、この曲に対するアンサーソングが作られることを期待していたようです[14][18]。実際、様々なボカロPがアンサーソング(と言われる曲)を投稿しており[19]、ヒップホップと同じように煽り曲に対するアンサーソングという構図が成立しています。当時のYouTubeに関するハチの投稿を見ると、クリエイター同士がお互いの作品をぶつけ合う混沌とした盛り上がりを見せる環境に強い関心を示しています[20]。最初のボカロブームがそうであったように、次のボカロブームにも同じような盛り上がりを期待していたのだと思います。
ボカロ踏み台論
ハチの別名義である米津玄師は、今やボカロ出身アーティストという枠組みを超えて、日本を代表するアーティストとして活躍していますが、「砂の惑星」を最後にボカロ曲を投稿していないことから、「ボカロ踏み台論[11]」に該当する立場でもあります。この言葉は「踏み台」という侮辱的な表現のせいで炎上し、2019年に広く知られるようになりましたが、知名度のあるボカロPがアーティストに転向し、ボカロシーンから離れていく様子を見ると、ボカロが有名になるための手段として扱われているように見えるという考えは理解できます。しかし、それはあくまでも傍から見ればの話であって、本人のボカロに対する考えを確認しないことには、判断しようがありません。
米津玄師はこちらのインタビュー[13]で、バンド活動で失敗した時期に初音ミクに出会ったことで救われた過去を振り返りながら、ボカロに対する感謝の気持ちを語っています。一方で、以下の発言[21]を見ると、ボカロPからアーティストに転向した理由は、初音ミクの力を借りずに自分の実力を試してみたいという気持ちがあったからでしょう。彼にとって初音ミクは、恩人ではあるけれど、いつまでも頼っていたくはないというような存在なのだと思います。
最後は、この考えが「ボカロ踏み台論」に該当するのかという問題になりますが、そもそも「踏み台」という表現は、強い言葉が悪目立ちしているだけで適切だとは思えません。別の表現として、本人の発言[22]を元に「故郷(ふるさと)」という表現を使おうと思います。ずっと故郷で暮らし続ける人もいれば、新しい環境を求めて離れていく人もいるように、ボカロというのは故郷のような存在だと捉えることができます。「故郷」を離れたからといって、「踏み台」のように蔑ろにしていると捉えるのは短絡的でしょう。米津玄師がいつかボカロシーンに戻ってくることがあるのかは分かりませんが、再び砂漠と煽られることがないくらい賑わいのある環境を目指すことが、現在のボカロシーンにいるクリエイターの責務なのだと思います。
「ボカロ踏み台論」に関する現役ボカロPの考えも見ていきます。みきとPは「踏み台」という表現に拒否感を示した上で、ボカロシーンから離れることを挑戦だと考えているようです[23]。この考えは、米津玄師がアーティストに転向した理由を語ったときの「初音ミクを隠れ蓑にしたくない」という発言[21]と重なるところがあるように思います。
一方で、和田たけあきとDECO*27の考えにも共通点が見受けられます。和田たけあきの「お互い踏み台にし合っているんだったら、突き詰めていくとwin-winな関係」[24]、DECO*27の「ミクがいるからボカロPがいるのか、ボカロPがいるからミクがいるのか」[25]という発言をそれぞれ言い換えると、「ボカロPが有名になるのと同時に、初音ミクも同じだけ有名になる」、「ボカロがボカロPの存在を規定しているのと同時に、ボカロPがボカロの存在を規定している」ということになると思います。つまり、ボカロとボカロPの間には循環的な依存関係があるということです。
この関係性は、ボカロPが新たな道に進むときに切れてしまいますが、それまでのボカロPとしての功績が消えるわけではありませんし、他のボカロPたちがボカロの存在を支え続けてくれます。また、新たな道に進むということは、ボカロの力に頼れなくなり、自分の実力がそのまま試されるという点でアーティストとしての大きな挑戦であり、「必ず高く飛べるというわけではないし、結局自力が必要になってくる」というみきとPの発言[23]はまさにそのこと指しているのだと思います。
ボカロシーンを俯瞰した場合、トップ層のボカロPの中に新たな道に進む人がいるということは、結果的にシーン全体の流動性の高め、新しい世代の活躍する場が広がるという点でむしろ良いことのように思えます。和田たけあきは、2013年から2014年頃のボカロシーンについて、人気のある人があまり投稿しなくなった淋しい時期だったけれども、逆に上がいなくなったことで下にチャンスが生まれたように感じたと語っています[26]。また、Neruは「ボカロ踏み台論」について、リスナー側の「屈曲した嫉視の眼差しがより新陳代謝を悪くしてシーンからクリエイターの足を遠のかせるような気がしてならない」と苦言を呈しています[27]。世代交代を繰り返していくことは、ボカロシーンの継続的な成長に不可欠であるため、ボカロという「故郷」への出入りはクリエイターの自由であるという意識を根付かせていくことが重要だと思います。
あとがき
「ボカロ踏み台論」はXで2010年から確認できると紹介しましたが、現在も同じような主張を多数確認できます。この考え方は、ボカロとボカロPの関係性を一面的にしか捉えられてないだけでなく、ボカロシーンの風通しを悪くする可能性も孕んでいます。一度広まってしまった考え方を上書きすることは難しいですが、ボカロシーンに視野の広い考え方のできる人が増えることを願っています。