レッツ前向き『老い』ライフ
□『老いる』ということ
老いる。
ということを極端にこわがり、
近年では『美魔女』という言葉まで現れ、
それに伴い美魔女になるための様々な
美トレーニングもうまれている。
しかし、
老いて死ぬ。
ということは、誰しもの決まった運命で
老いずにいることは不可能なのですが
なぜだか多くの人がこの『老い』をこわがり
老いていく自分にワナワナと
漠然とした不安を抱えてしまいます。
歳をとる。とはどういうことだろうか。
顔にしわが刻まれることか。
背中が丸くなることか。
物忘れが多くなることか。
先日、いつも整体教室にいらっしゃる
75歳の生徒さんとお話していたのだが
「夫がガンになっても大好きなお酒をやめないで、本当好き勝手に生きてるのよ!」
とご立腹の様子でした。
「まだ死にたくない、と本気で思えば、自ずと酒もやめるでしょう。でも、寿命がちぢまったっていいから好きなお酒を飲んでやる!という欲望と勢いがあるなんて、大変お元気で幸せな人生じゃないですか。」
と言うと、目を丸くして
「それもそうね。
私も好き勝手生きていいのかしらねぇ。」
なんてお話をしていました。
歳を重ね、40、50代になると
更年期や四十肩、五十肩に皆んななる。
と思い込んでいる方もいますが、
そうならない方も実は沢山います。
慢性的な腎臓の疲れによるリンパの詰まりや
胸のかたさ、呼吸の浅さが
原因の場合もありますし
精神面が関係している場合もあります。
そもそも腕を上げることが少なく、
肩胛骨を使うこともない生活をしていると、
使わないものが動かなくなるのは当たり前で
定期的に使っていれば動きます。
実際、わたしの身の回りには
畑を耕し、軽やかな身体で
キラキラとした目で悠々自適に生きる
60代〜90代までの方が多くいらっしゃいます。
私もああいうお手本の人生の先輩方がいると、
歳を重ねていくことも楽しみになります。
□最後に残るのは『習慣』
とはいえ、
120歳になってもそんなに元氣か?
というと、そうではありませんね。
病気があろうとなかろうと、
誰しも最期は、
歩けなくなり、
食べられなくなり、
飲めなくなり、
見えなくなり、
カラカラになって死にます。
風邪ひとつで、文字通り、命とりになる。
老いてくると、それは誰だって同じです。
『老いる』ということは、
出来なくなっていく。ということ。
若い頃は出来ていたことが、
一つ一つ、
出来なくなっていく。
ということではないでしょうか。
しかし、最近では、
若くして老人のような身心の方も多い。
弾力のない背中、
夢や希望がなく、目の輝きを失い、
自分は何がしたいのか、
何が食べたいのか、
何が好きなのか、
分からない若者。
そんな若者を輩出してきてしまったのは、
間違いなくわたしたち大人が作ってきた
この世の環境にあると思います。
寝たきりになるまで、
死ぬ直前まで、
私たちにはやらねばならないことがあります。
それは、自分で自分をまかなうことです。
ご飯を食べられなければ餓死してしまうし、
水も飲まねば死んでしまうし、
とりあえず雨風しのげる家を維持し、
最低限の服を着る。
生きている以上、自分のことは自分でやる。
というミッションは、一生ついて回ります。
超高齢化社会の現代の日本
パートナーがいる、いない、
子どもがいる、いない、
はもはや関係なく、
自分の面倒は自分でみていかなきゃいけない
そんな当たり前なことに直面することが恐い
そんな人が『老い』を恐れるのではないでしょうか。
なんだか希望がない世の中に思えますか?
私はそうは思いません。
そんな『老い』がくることは
避けられない将来ですが、
将来の自分を支えてくれるたしかなもの、
それは『今までの習慣』です。
毎日、ご飯支度をしていた人は、
ご飯支度のスキルがあります。
そりゃあ、若い頃のように、豚の生姜焼きに
味噌汁、サラダ、デザート全てを
揃えることは億劫になり、
食欲が落ちてこようとも、
米と味噌汁だけは用意出来る。
それは今まで自分がご飯支度をやってきたから。
私は毎日、『整体』をやっています。
せっせと身体を整える。
自分の手で、毎日健康診断をし、
調子が悪ければ各所手当てをする。
この習慣は、歳を重ねても続きます。
それでも老いてくれば、
出来なくなることはでてくるはずです。
出来ることが増えることは嬉しいことですが、
出来ていたことが出来なくなっていく。
その喪失感と向き合い、受け入れ、
歳を重ね、おばあちゃんになっても
快適で過ごせるよう準備をしているのです。
□皆、1人では生きられない
最近、熟年結婚や
墓ツアーたるものなどが流行っているそうです。
大きな理由のひとつに、
「孤独死がこわいから」
「一人は寂しいから」
というのがあるらしいのですが、
死ぬ時は皆んなきまって1人です。
新たなパートナーが出来たって、
パートナーに先立たれた暁には1人です。
正直言って、誰かをアテにするために
歳をとってから慌ててパートナーを探し、
墓ツアーで慌てて友達を探し、
孤独死を避けるため、
面倒みてもらうために築く人間関係って、
なんだかムシが良すぎて不自然ではないだろうか?
と思う私はひねくれているでしょうか。
しかし、
じゃあたった1人で死んでいけるか。
というとそうではありません。
出来なくなることが増える一方の老いライフで
今まで出来ていたご飯支度が出来なくなったら
人やケアマネ、既存のサービスなんかに
頼ったりと、
人の手を借りることが必要になってきます。
しかし、これは個人的な意見ですが、
わたしは自分が老いてきたら、
頼みたいと思える既存のサービスが、
あまりない。
豪華に味付けされたデリバリー食品より
誰かが愛情こめて作ってくれる
ご飯、味噌汁、家庭料理が食べたいですし
歳をとり、病にふせていれば
それはなおさらではないでしょうか。
寝たきりになり、
お世話をしてくれるのは、
乱雑に寝返りを促し、
事務的にやることをやって
帰るだけのオートマ化したケアマネではなく
丁寧で、気心知れた安心出来る人が側にいてくれたほうがいい。
(もちろんいいケアマネさんも沢山いらっしゃいますが)
そもそも愛し、愛され、
譲り合って、助け合える、
思いやりに溢れたコミュニティの中で生きることが、
本来のすこやかな人間の自然な姿ではないだろうか。
と思うのです。
そのコミュニティを作るのは、
ヨボヨボのおじいちゃん、
おばあちゃんになり、
気力も体力も落ちた時に
慌ててやることではなく、
すこやかな人生であれば、
自然と形成されるものではないのかな。
と思います。
先日、地元北海道の某所で
様々なご縁でこちらの土地、
草刈りをしてくれるなら好きにしてもいいよ
ということで、同志の方々と動き始めました。
□農具小屋作り
□畑
□窯や焚き火場
なんかを作りましょうかと、
進めているところです。
非常にワクワクします。
これも絶対に私1人では出来ないのですが、
興味のある人は自然と集まり
いつのまにか助け合いが当たり前の
コミュニティがうまれる。
そんな雰囲気があります。
こちらの場作りにも携われることは
今、私自身の生き甲斐にもなっています。
1人で草刈りをした同志の方には
感謝しかありません。
次会う時はお疲れ様と美味しいお酒でも
飲んでもらいたい。
ステマのようになってしまいますが、
整体で身体を整えて、
すこやかな自分を取り戻すということは、
生き方を見直すことになります。
お互いに氣も、血も、水も流れ、
痛みのある人間同士、
丁寧に触れ、調子を観察し合って
手当てをすることが当たり前となる社会が
形成されていくことは
皆さまの日々豊かに暮らせる第一歩と信じて、
来年度も施術、教室を展開していきたいと思います。
本日も皆さま、すこやかな日々をお過ごしください。
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