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フジファブリック「若者のすべて」の副助詞「も」の話

この歌には花火が出てくる。

夏の空に打ち上がり、瞬間あまりにも華麗な姿を晒した後、消えてゆく。その瞬間の華麗すぎる美しさ故に、消えてしまったときの、終わってしまった時の切なさは大きい。

打ち上がっては消えてゆく花火の、その一瞬の刹那の美しさと儚さは、天気予報士が出ているテレビや、夕方5時のチャイムや、ひとつずつ灯ってゆく街灯などの「繰り返される日常」の言葉と対比されている。

うんざりするほど繰り返される日常を、垂直に切り裂いて広がってゆく花火の美しさ。でもこの歌はそんな簡単な図式に収まってはくれない。

「最後の花火に 今年もなったな」

この副助詞「も」が意味するところは、彼は、きっと去年も一昨年も花火を見ていたということ。

その夏が、今年「も」終わりを迎えようとしている。だからここにあるのは、花火と、夏と、その両方の「終わり」と「儚さ」の二重化で。夏が終わると花火も終わる。打ち上がり消えていくしかない花火を、きっと夏が来るたびに、毎年毎年ずっと見続けてきた。おそらく、初めて誰かと一緒に見たのと同じ場所で。

それだけではなく、夏も、花火も、うんざりする日常と同じように、実は毎年毎年繰り返されている。刹那の美しさと儚さが二重化されているように、うんざりするほど続き繰り返される日常もまた、この副助詞「も」によって二重化されている。日常と対立するはずの刹那が「ないかな ないよね」という諦念とともに、毎年、夏になると反復される「花火を見る」という行為の中に織り込まれている。その「圧倒的な諦念」の中に、この歌の主人公はいる。そして今年の夏もまた同じ花火を見ている。

それでも、歌の最後に彼は、唐突に「まいったな、話すことに迷うな」と言う。ここで彼は、間違いなく誰かに出会っている。何年も何年も打ち上がっては消えていく花火を見続けた、今年の最後の花火の瞬間に、待望した誰かと再会している。これが救いであってほしいと、きっと誰もが思う。

「僕らは変わるかな」

ずっと繰り返されてきたサビのメロディの中で、この最後のワンセンテンスのメロディラインだけが、ほんの少しだけ変わる。日々の反復と、毎夏の反復と、圧倒的な諦念が、ここへきて、ほんの少しだけ覆されている。そして今までひとりだった「僕」は、ここで「僕ら」に変わる。これが救いであって欲しいと、きっと誰もが思う。

でも私たちが住む世界に、この美しく儚い歌を書いた作者はもういない。彼の夏はもう繰り返されることはない。でも私たちは、また夏が来ると、この歌を繰り返し聴くことができるし、何なら歌うこともできる。へたっぴだけどね。

オリジナル

バンクバンド


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