「乙葉」について
初めてnoteを書きます。乙葉です。
関わって下さる皆様のおかげで私は毎日充実しています。本当にありがとうございます。
Twitterでたくさんの男性とお会いするに連れ、次第に私のことを知って頂きたいと思うようになりました。
いつも気遣って下さるフォロワーさんのことが大好きです。
今回、私の現在に至るまでの生き方をnoteに書き記したいと思います。
最後まで読んでみて下さい。
私は、父と母、祖母、兄の5人家族。
父は単身赴任。祖母は躾に口うるさく、癇癪持ちの母は苛立つと自分の子に皿や鍋を投げてくるような人。
嫁姑の関係は最悪で、私は常に家族の顔色を伺うような子供だったと思う。
兄だけは違った。
兄は3つ上。本当に優しい性格で、私が仮面ライダーのおもちゃを独り占めして返さなかったときも、半泣きになりながらも譲ってくれた困った表情を今でも覚えてる。
小学校では一人で居ることを好んだ。友達と遊ぼうと思わなかったから。
一人で居るというだけでイジメにも遭った。
「みて。ひとりぼっちなのに、また学校きてる。」
「私たち、あんたのこときらいなんだけど?」
靴を隠されたり机に落書きされたり。無視をしていると身体的な暴力を受けることも。
でも私は学校では絶対に泣かなかった。
家に帰り泣いていると、兄は何も聞かず、何も話さず、ただ一緒にいてくれた。
兄も泣いていることはあった。
私と比べて特に厳しく育てられたからだと思う。
兄が泣いている時には私も傍で過ごし、何をする訳でもなく、ただ兄の真似をして傍にいた。
そうやって私たち兄妹はいつも一緒に過ごしてきた。
私と兄はいつも一緒にお風呂に入ってた。
小3の夏、悪戯心で兄の胸に泡を塗ってくすぐると、
兄のソレは徐々に大きくなり、上に反った。
「どうしたの?痛いの?」
「気持ちいいんだよ。」
兄は私の手をソレに押し付け、私の胸を触った。
それからというもの、兄と私はお風呂に入る度にカラダを触りあいこした。
私も兄に求められることを嬉しいと思っていた。
初体験も兄とした。
嫌なことがあっても、兄と過ごす時間は全てを忘れさせてくれた。
兄は中学に入るとバスケに夢中になり、次第に遅く帰る日が増えた。
それでも兄と私は、家族の目を盗んで体を重ね合った。
幸せな毎日。
こんな日がずっと続けば良いと思った。
私は中学生になった。
兄は高校生になり、朝から夜までバスケの練習に励んだ。
次第に兄と過ごす時間は無くなっていった。
「好きなことがあるって楽しいよ!
乙葉も一緒にバスケしてみよう?」
兄は生き生きと輝いていた。
「ずっと一緒にいてくれたのに。
バスケなんて、できなくなればいいのに!!!」
幼い私はバスケに嫉妬し、兄にそう言い放った。
翌月、父が会社をクビになった。
会社のお金を横領してパチンコとボートレースで失ったと後から知った。
返済をするために住み慣れた家は売却することになる。
それを期に我が家の状況は一変。
父は再就職もままならず、ずっと家にいた。
そして母は、パート先の男性との不倫が発覚。
祖母は一気に認知症が進み、程なくして施設に入所。
兄は大好きなバスケの部活を辞めてアルバイトを始めた。
本当にバスケが出来なくなってしまった。
「これ、乙葉にプレゼント!」
手のひらサイズのテディベアだった。
兄は初めてのバイト代で私にプレゼントを買ってくれた。
「テディベアなんて子どもじゃないんだから!
時計とかネックレスがよかった。いらない!!」
正直、バイトに兄を取られてる気がしていた。
なんでお兄ちゃんがバスケ辞めてバイトしなきゃいけないの?という複雑な気持ちもあった。
、、、でも、本当は嬉しかった。
気持ちが落ち着いたら謝ってお礼言おうかな。
そう思っていた。
その3か月後
兄が亡くなった。
自 殺だった。
兄の体には至る所にアザがあった。
兄は父親から虐待を受けていた。
頭が真っ白になった。
なんで?
なんでこうなったの?
家族のためにバイトしてたのに。
バスケの全国大会だって諦めたのに。
私の最愛の兄が死んだ。
私の全てだった兄が死んでしまった。
謝らないといけないのは私だ。
そんなこと分かっていたのに、ずっと素直になれなかった。
誰より頑張っていたのに。
もう、お礼を言うことも、謝ることもできない。
お兄ちゃん。
ごめんなさい…
ごめんなさい――――
それからの私は、何をしても虚無感が付きまとい、常にイライラした。
両親と大喧嘩して家を飛び出すこともしばしばあった。
エンコーで気を紛らわした。
セッ×をして兄の事を考えないようにした。
洋服や携帯電話の支払いや食事に至るまで、当時の私に必要なものは全て援助してくれた。
そんな荒んだ生活が2年続き、もう一生お金には困らないのではないかと、当時の私では勘違いをするほどになっていた。
それでも、何をしていても兄のことが頭から離れなかった。
ある日。
スーツを着た品のよい感じのおじさまが声をかけてきた。
「お茶でも飲みながら話しませんか?」
こう言いながらも体を求めてくるのが定番。
カフェというより喫茶店という方が相応しいジャズが流れているお店に連れて行ってくれたが、本当に話だけをして謝礼をくれた。
生活指導?警察?
最初は疑ったが、それなら謝礼は出さないと考えた。
「……また会ってくれますか?」
「よかったらまた話し相手になってほしいな。」
本当にお話だけして謝礼をいただくという関係が数回続いた。
話していくうちに、お父様が起こされた事業を引き継ぎ、ご自身の頑張りで大きくしたこと。
奥様は息子さんの出産の際に亡くなり、事業と子育てで全く遊ぶ余裕がなかったこと。
早期引退して会社を息子さんに譲り、みんなが遊んでいた時期に自分ができなかったことを取り返そうとしていることを知った。
私はこの方と話をしている時間がとても好きだった。
家でも、学校でも、誰といても、何をしても消えなかった虚無感が、その時だけは消えていたように思う。
私はこの方には何でも話せた。
いつものように二人でお話をしていると、
「自分はEDなんだ。仕事や子育てでそういうこともしてこなかったから、単なるおしっこをするための器官になっちゃったんだ。」
とカミングアウトされた。
この言葉を聞いて、私の中である感情が芽生えた。
『この方を助けてあげたい』
そう思った私は思い切ってホテルにお誘いした。
初めは小娘の冗談だと笑っておられたが、私はリハビリのようなものだし日頃のお礼がしたいというようなことを確か言ったと思う。
まぁじゃあ…というような雰囲気の中で私たちはホテルに入った。
服を脱ぎ、一緒にお風呂に入り、私からキスや体を触った。
口や舌で丁寧に愛撫をしても、少し反応はあるもののすぐにしぼんでしまうような「難敵」だった。
実は私は私で少し自信があった。
しかし、ほとんど反応してもらえなかった。
私もその方に愛撫していただき、その方の手はとても温かく、優しく包まれているような感覚で、久ぶりすぎてやり方を忘れたと仰っていたが、私は終始本気で感じてしまっていた。
その日は私だけイき、そのまま終わった。
そんな状態が2~3回続いた。
そんなとき、テレビで
『社会的立場が高い人はMの傾向が多い』
というのを目にした。
Sの経験は特になかったが、付け焼き刃の知識でその方に試してみようと思った。
私の狙いは当たった。
硬くならいことを汚い言葉でなじりながら、足でイジった。
目隠しをしたり、乳首をつねったり、ローションを塗ってお尻の穴に指を入れたり、陰 嚢を踏んだり足の裏でこすったりした。
そうしているうちにしっかりと大きくなり、私から生で挿入すると射セイされた。
ご本人も、復活したこととご自身にM性があったことに随分と驚いておられた。
すごく感謝され、何度も御礼を言われて抱きしめられた。
その方とは暫くそのような関係が続いたが、そこから目覚めてSMバーやハプニングバーにも通うようになったと聞いていた。
今では47歳の彼女(元プロの女王様)ができたそう。
今は年1回お話しだけで解散するという、年上のお友達というか、親戚のおじ様のような関係。
ちなみに現在の私の勤め先も、その方がスタートアップに関与された会社を紹介していただいた。
『誰かの役に立てる』
『感謝される』
という充実感と満足感を味わいたい。
これがTwitterを始めたきっかけです。
私自身の性の喜びというより、性の喜びを感じていただける喜びの方が大きく、今でもその気持ちは続いています。
セッ×しか取り柄がない私でも、セッ×で人の人生を変えられる。
満たされない気持ちは私が満たして差し上げたいと思いますし、それで私も満たしていただいています。
そのため私はリピートではなく、できるだけ多くの人と関わりを持ちたいと思っています。
それが今の私の生き甲斐になっています。
そして今日も、手のひらサイズのテディベアに手を合わせて出掛けます。
Twitterで私と出会ってくれてありがとうございます。
セッ×の技術も、人間的にも成長出来るように、日々精進致します。
こんな私ですが、これからも乙葉をよろしくお願い致します。
最後までご観覧頂き、本当にありがとうございました。
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