〈まだ知らぬ場所〉へ

小島なお『サリンジャーは死んでしまった』

「詩歌がわかるようになりたい!」と喚いていたら、友人が笹井宏之と小島なおをおすすめしてくれました。

というわけで、練習がてら、小島なお『サリンジャーは死んでしまった』から15首抜き出して鑑賞文を書きました。

(笹井宏之『ひとさらい』の感想はこちら)

ここに書かなかった歌にも良いなと思ったものはあったし、その中には、どこが良いと言葉に出来なかったものもあるけど、とりあえず。
(歌集の引用ってどこまでなら許されるのかわからないんだけど、このくらい(全307首から15(+2)首)なら大丈夫かな……という意味でも)

分類は完全に私見です。各項目内では、掲載順に配列してある。

いつかまた読み返したら、きっと違う歌に惹かれると思うので、そのときの自分のための覚書でもある。


叙景

裏庭にうねりやまない草の波 紋白蝶の帆船浮かぶ

誰もいない裏庭に生い茂った草が風にうねり、その上にとまっている紋白蝶が、風に翅を立てている。力強い緑と白のコントラストは油彩画のよう。


サンダルで水溜まりの上またぐとき昨日の夜の遠雷をきく

サンダルを履いて出る夏の朝。昨晩の雨がまだ、水溜まりになって残っているのは、それだけ激しい雷雨だったから。「サンダルで水溜まりをまたぐ」という一瞬の鮮やかな視覚イメージが、〈遠雷をきく〉という聴覚イメージと重ね合わされて、全身に夏の空気がおしよせる。


鰓呼吸しているような静けさで傘さしてゆく紫陽花の道

やわらかな雨が物音を吸い取って、水の中にいるような〈静けさ〉。〈紫陽花〉の青に染まった視界も、雨でぼんやりとしている。


海底のあおさにしずむ夕暮れに鯨の群れの迫りつつある

宵闇の色は海底の〈あお〉に似ている。そこに〈鯨の群れ〉――むくむくとふくらんだ積乱雲が迫り、すぐに激しい夕立が来る。現実を一枚めくったところにあるファンタジー。


音たてて銀貨こぼれるごとく見ゆつぎつぎ水からあがる人たち

体育の水泳の時間だろうか。ざあ、と大きな音を立てて、プールサイドにひとびとが上がってくる。その水しぶきが、屋上に降りそそぐ日射しを眩しく鋭く反射している。それを、じっと見つめている。


超新星爆発はるかゆたかなる春一番が海わたるとき

超新星爆発は、「新星」と名につくものの、老いた星が寿命の最後に迎える大爆発のことをいう。だが、その爆発の中から、新しい星が生まれてくる。春一番は冬の終わりに、海を渡って南から吹く暖かい風。超新星爆発の爆風のように、新しい生命の季節を連れてくる。


ふくふくとしてもりあがる春の土菜の花色のブルドーザー過ぐ

ブルドーザーの通ったあとでも、春の土は温かくやわらかく、芽吹きを準備している。いかつい〈ブルドーザー〉も〈菜の花色〉の予感にふんわりと包まれて、絵本の一ページのようだ。


叙景+叙情

遠雷のときおり響く交差点貝のかたちの耳が行き交う

貝殻ではなく〈貝のかたち〉をしている耳とは、イヤフォンやヘッドフォンで覆われた耳のことじゃないだろうか。交差点を行き交うひとびとは、みんなそれぞれ耳をふさいで自分だけの音に没頭していて、遠くから雷が近づいてくることに気づかない……。


無人なるエレベーターの開くとき誰のものでもない光あり

誰も乗っていないエレベーターが降りてきて、するすると扉がひらく。誰も乗っていなかったエレベーターの中に、〈誰のものでもない光〉が灯っている。役立てられない光は虚しいだろうか。それとも、この実用のための空間に〈誰のものでもない光〉があることを許されているのは、幸いだろうか。


老いという銀河のような引力を纏いて眩し白髪のひと

老いはありとあらゆるひとを、時間という糸でひっぱっていく。全てのものが引力にひきつけられるように。そして、光る銀河の中心には、光すら呑み込むブラックホールが。


いろいろなものから自分を護るため陽射しにマスクが光る群衆

これは3・11のすぐあとの情景を詠んだ歌だが、まるで2020年の歌みたいだ。
2020年の今、マスクをするのは、ウイルスから自分を護るため。そうやって「何か」をすることで、不安から自分を護るため。そして、「感染症対策を実行している自分」をアピールすることで、周囲の視線から自分を護るため……じゃないだろうか。わたしは、そうだな。


叙情

あたらしき母の歌集に父の歌なきこと気づき笑えり母と

〈母〉にとって〈父〉が心動かされる存在ではないことを、これほどはっきりと明かしてしまうものが他にあるだろうか。そのことに、〈母〉と詠み手は気づき、ショックを受けるのではなく笑ってしまう。歌にもならないというのは、そういうことだ。


おもむろに春の昼寝にあらわれし祖父木登りをわれに見せくる

現実の〈祖父〉にはもう、〈木登り〉ができるような身体の自由はないのだろう。だが、うららかな春の陽射しにうつらうつらとまどろむとき、夢の中の〈祖父〉は元気だ。
この歌集には、だんだんと老い衰えていく「祖父」を詠んだ歌が幾つも収録されており、先述の「老いという~」もそうだが、これもその一つ(他に〈老いてゆくいのちのありてひるがえる祖父のずぼんが夏空へ跳ぶ〉や〈祖父に似る人を何度も見かけたりなんと寂しき帽子のかたち〉も)。
わたし自身、三年前に祖父が置いて亡くなったばかり(「ばかり」ではないのかもしれないけど、他に身近なひとがまだ亡くなったことがないので、いまだに「ばかり」という感覚でいる)だから、印象的だった。わたしの夢にも、たまに祖父が出てくる。夢の中ではいつもまだ生きている。


空より手にゅっと伸びきて摑まれるごとし仕事が辛いと言えば

自分にとっては確かに辛くても、「辛い」と言うと、客観的で公平な「誰か」に「辛さ」をジャッジされて、「そんなのまだ『辛い』うちに入らない」と責められる、ような気がして。それはそうかもしれないけど、責めているのも本当は自分自身なのかもしれないけど、辛いものは辛い。


サリンジャーが死んでも

まだ知らぬ場所限りなく存在し時折われを遠くより呼ぶ

青春時代が終わっても、〈まだ知らぬ場所〉は〈限りなく存在〉している。その呼び声が届く。
今まで引いてきた歌とはかなり方向性が異なる一首だけれど、いちばん好きな歌はこれかもしれない。

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