糸が変わる、織り方が変わる
梨木香歩『からくりからくさ』
(※ネタバレを含む感想です)
この本を最初に読んだのは5年以上前で、今ようやく2度目を読み、初読のときは無知すぎて何が書かれているかわからず読み落としていた部分がだいぶあったんじゃないかなあという気がした。
ほとんどクライマックスの一瞬の光景しか覚えていなかった……といっても過言ではないくらいの記憶しか残っていなかったのは、理解してなかったからじゃないだろうか。
特にマーガレットのこと。彼女が「プラクティカル」でないことを受け入れることへの困難。それでも神秘主義(的なもの)を理解しようと苦しんでいたこと。「底光り」の意味を聞いたときに呟いた、「Inner Light」という言葉の背景。クルドの問題。「私はマギーではない」というアイデンティティ。
もっと幼い頃は、「知識に基づいて察せられる前提で書かれていること」と「書かれてあることから読解によって導かれるべきこと」の分別がつかないからこそ逆に、わからないなりに読める領域が大きかった気がする。
今はもうそのように読むことができないという、確かな事実がかなしい……けど、変化も成長もなかったことにはできないから、前者で引っかからないように勉強するしかない。
最後のりかさんをマーガレットが「マリアさまみたい」と言って、あとの三人はそれは違うと感じるくだりがある。
でも、あのりかさんは、三人にとってのマリアさまではなかったけど、マーガレットにとっては正しくマリアさまみたいだったのかもしれないと、今のわたしは思う。
「マリアさま」というものに対する、イメージというか、文脈の違い。本当のところはわからないけど。
それと、この作品に能面が出てくることさえきれいさっぱり忘れ去っていたんだけど(つまり、本当に何も覚えていなかった)、中盤で「蛇は般若の次」というフレーズが出てきたとき、東京国立博物館の展示室で能面を見たときのことを思い出して「ああ、あれ……」と思った。能面の変化についてなら知ってる、と。
そしたら、終盤の能面を見ていくシーンで蓉子の感じたことが、トーハクでの自分の印象と酷似していて、でもトーハクで能面を見たのはたぶん『からくりからくさ』を読んだのよりあとだったから、この本が念頭にあってああいう印象を受けたのか、思い出せないレベルの記憶に残っていたのが作用したのか、それとも『からくりからくさ』は関係なしにあの感覚を抱いたのか、わからなくなった。
わたしは『からくりからくさ』のことを忘れていたから自分の感想だと思っていたけど、『からくりからくさ』の影響だったのかもしれない。
もっとも、鬼女の面に悲哀を見出すのは一般的な鑑賞態度のようなので、本当に『からくりからくさ』は関係なかったのかもしれないし、キャプションの解説に助けられたのかもしれない。
ちなみに、与希子と紀久でヨキコトキクなのか、でもってマーガレットもキクなんだ……ということにも今回初めて気づいた(と思う)。
作中人物と同じアイレベルで作中世界を見るのではなく、作品全体の構造を俯瞰して見るという視点に、初読時はまだあまりなじんでいなかったからかも。
「蓉子とマーガレット(キク)」も「ヨキコトキク」にかけてるのかはちょっと自信がないけど。