「みんなのフォトギャラリー」から画像を下げました/文脈のない画像の話
しばらく前に、「みんなのフォトギャラリー」に共有していた投稿写真をギャラリーから下げました。
すでに使用されているものについては(その時点ではわたし自身が使用されることに同意して共有していたわけですから)下げておりませんので、ひきつづき表示されているはずです。
……という文章を、たぶんわたしの写真を使ってくださっている方は目にすることはないんだろうなあと思っています。わたしも、「使われました」の通知を見て嬉しくはなっても、使ってくださっている投稿を見に行くことはないので。その、安全で、かつコントロール不可能な切断されっぷりが、下げた理由です。
言葉と同じように、図像にも文脈というものがあり、その文脈を離れて新しい意味を吹き込まれるのもまた作品の宿命であり生命だと思います。公表した時点で、作品はわたしの手を離れている。
ただ、たとえばもしわたしが絶対に肯定できないものを表現する一助として、わたしの作ったものが使われることがあったら、それに知らんぷりするのはあまりに無責任だし、もちろん嬉しくもない。
それを回避するためには、きちんと自作品の使われ方をチェックするか、そもそも使われることを許可しないか、で、わたしは後者を選んだということです。実際に使ってもらう経験を重ねるまで思い至らなかったのは浅慮であった。
あと、ブログ記事のヘッダーに、特に深い意味はないけど良い感じのそれっぽい綺麗な画像を置くのが、実は好きではない。とか言いつつ自分も結構やっているのですが。
ヘッダーに画像を置いてアイキャッチ効果を高めたり、ブログの内容を示唆したり、見栄えという点から完成度を高めたりする行為を否定するものではないです。……否定するとは何だろう? 非難するものではないです。何も間違ってないし、やりたいことはひとそれぞれだし、「誰かに読んでもらう」という目的に資するし。
でも、自分が上げた写真を全然異なる文脈で使ってもらっているのを見るにつけても、「素材」としてもともと文脈のない画像が溢れているのを見ても、(使用者は使用にあたって、本人なりの文脈を重ねているとしても)消費して/されているなあと思ってしまい……作品は消費するためにあるのではない、というのは、わたしの個人的なこだわりです。
というわけで、自分の投稿している記事には、自分で勝手な文脈をのせてパブリックドメインの画像を使用しているのでした。このくらい個別の文脈を離れて受容されているものだと、逆に大丈夫に思える……のは、それはそれでどうなんだろうと思わなくもないけど、やっぱり綺麗な画像が置いてあると締まるからさ……(あと、noteのシステムメッセージが画像を置くことを推奨してくるから……)。
写真を載せているときは、撮ったときの自分だけの文脈がのっているからいいんだけど。