『若きウェルテルの悩み』

 今までに読んだことのあるゲーテ作品が『親和力』と『ファウスト』で、『親和力』も自分の配偶者ではないひとを好きになってしまう話だったので、ゲーテはそういうのが好きなのかなと思ったけど、この話は実体験に基づいているらしい。
 ゲーテが23歳のときにロッテ(実在)に出会い、25歳で『若きウェルテルの悩み』を出版している……。

 ウェルテルとゲーテの違いは、作品に昇華できたかどうかというところなんだろうな。ウェルテルはやっぱり死ぬべきではなかった、シルエット一枚で満足せずにロッテの絵でも何でももっと描けばよかったんじゃないだろうか。

「活動力は調子が狂って落ち着きのない投げやり状態に陥り、のんきにしていられず、そうかといって仕事もまったくできない。表象力も持たない、自然にたいしても無感覚、本は思ってもいやだ。自分というものがなくなってしまうと、すべてがなくなってしまう。正直な話、ぼくはよく日雇い人足になりたいと思う。そうすればせめて朝眼をさませばその日一日を過す目当てがあり、一つの欲求、一つの希望が持てるからね。」(8月22日)

 うん、そう、その気持ちもとてもよくわかる。(恋ではないけど)正気でないときはもう何も手につかない。
(プルースト『失われた時を求めて』の「スワンの恋」のスワンもそんな状態に陥っているのがおもしろいな……ウェルテルはおそらくほとんど初めての真剣な恋だけど、と思ったけど、スワンも本気で恋に狂わされたのはオデット相手が初めてだったのかもしれない。「人生のこの[当時のスワンの]ような時期になると、人はすでに何度も恋愛を経験しており、もはや昔のように心が不意打ちを食らってなすすべもないまま、恋愛がひとりでに想いがけない固有の宿命的法則にしたがって進展することはない」(岩波文庫、第2巻、p. 40-41)って言っていたのにね)


 最後まで手紙の相手としてしか出てこないウィルヘルムは、どういうひとで、どういう立場に置かれていいたんだろう。構成上、ウィルヘルムについての説明が一切なく、謎のまま放置されている。
 ウェルテルを死から免れさせることができるひとがいたとしたら、かれだけだったんじゃないだろうか。いつかの段階でウィルヘルムが実際にウェルテルに会いに行って、ひきずってでも旅にでも連れ出していれば、違ったんじゃないだろうか。ウェルテルはひとりで自分を追いつめていってしまっていたから。
 とはいえこの作品は――自殺を肯定しているわけでもないけど――ひとが自死を選ぼうというのは安易な逃げではなくて、真剣な煩悶(という一種の病)のせいであること、ひとは観念によって死にうることを18世紀後半のキリスト教文化のなかで示したのが稀有だったのではないかなと思う(わかんないけど)。ウェルテルはウェルテルなりに、神に対しても真剣だった。そしておそらく、文化によらずとも、人間が自分で死のうと思って死ぬのは結構大変なことだとわたしは思う。
 拳銃で頭を撃ち抜いても、事切れるのに半日かかるとは難儀なことだ。


 ところでこの作品については、読む前に母から「恋のために死ぬなんてもったいないし、気をもたせたロッテも悪い」とのコメントを頂戴していたのだが、わたしには、ロッテが悪かったとは思えなかった。最初にダンスパーティで踊ったときからロッテのほうもウェルテルへの恋に落ちていたのだし、ロッテに婚約者があることはふたりとも承知していたのだから、悪かったといえばどちらも同程度に悪かったと思う。
 それと、ロッテが亡き母に「妹、弟たちにとっては母代わりに、父にとっては妻代わりになれ」と言い残したのがむごいな……と。作中では、ロッテの献身は美徳として描かれているけど。


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