パリス・ヒルトンにラメ、冷やし中華は土曜日。そしてラジオは真夜中に。/松井友里【連載エッセイ「わたしとラジオと」】
インフルエンサーや作家、漫画家などさまざまなジャンルで活躍するクリエイターに、ラジオの思い出や印象的なエピソードをしたためてもらうこの企画。今回は、ライターの松井友里さんに深夜ラジオの好きなところをお聞きしました。
パリス・ヒルトンにラメ、冷やし中華には土曜日が似合うように、ラジオには夜がもっとも似合う。
昼間のラジオは、いつどこで誰と聴いても大丈夫な「みんなのもの」という感じがするけれど、深夜のラジオは一人ぼっちの時間とともにある。昼間のラジオの地に足のついたたくましい明るさに勇気づけられることもありつつも、ラジオについて考えたとき、まっさきに思い浮かぶのは、人生の折々にある眠れない夜に、イヤフォンをして一人密やかに聴いた深夜ラジオのことだ。
いまはアプリを使えばいつでも深夜ラジオを聴くことができるけれど、たとえ再生するのがからりと晴れた明るい昼間で、にやにや笑いが止まらなくなるような内容だったとしても(深夜ラジオを聴いているときの笑いの表情の形容は「にやにや」か「にたにた」か「にまにま」ですよね)、深夜の番組には真夜中の暗さがどこか漂っていて、その暗さを耳から体に流し込むような感覚でラジオを聴く。一人で深夜ラジオを聴く時間は何時であっても真夜中で、いくつもの記憶が混じりあったたくさんの夜のイメージが溶けて、ラジオのイメージに染み込んでいる。
何年か前、縁があって、ある生放送のラジオ番組の構成作家をすることになった。
窓の外が暗くなりかける時間に入るブースの中は照明もわずかに薄暗く、二重の防音扉を閉めると、どれだけ華やかなゲストが来て、にぎやかな放送が行われていても、外の世界とは切り離されたようなしめやかさがあって、いつもどこか厳かな気持ちになった。ブース内には基本的にパーソナリティーと二人きりで、特別なことがないかぎり、サブにも数人のスタッフしかいない。こんなにも静かで小さな場所から、電波を通じて多くの人たちへ番組を届けていることにとても不思議な感覚を覚えたけれど、同時に、これほど静かで小さな場所だからこそ、同じようにしんとした夜の中にいる人たちと、ささやかに夜の暗さを分かち合えるのかもしれないと思った。
一つの番組にはまると、しばらくはその番組ばかりをおまじないのように聴き続け、ほかの番組を聴くことができなくなってしまう。というか、体感的に「周波数が合わない」感じがしてくる。ときにほかの番組を聴くことがあっても、聴こえてくる音がどうも体にしっくり馴染まない。
だいたいの深夜のラジオは、はじめて聴くリスナーには敷居が高い。だからこそ、そのハードルを越えて惹きつけられるものを感じとると、そのぶんだけ、恋や友情のはじまりみたいに、パーソナリティのこと、リスナーにだけ通じる暗号めいた言葉やコーナーのニュアンス、端々に潜むスタッフのしのび笑いの意味を知りたくなって、どっぷりと身を浸してしまい、やすやすとほかの番組を聴くことができなくなる。
聴きはじめてしばらくすると、それほどの熱狂はだんだんと鎮まっていくのだけど、いったんそうした季節を通過した番組は、多くの場合、蜜月が終わっても、ほどよい親密さを保ちながら、常備薬のように聴き続けることになる。
かつてラジオを聴くときは、小さなコンポのつまみをひねって、周波数を合わせていた。いまはアプリで聴くこと一択になってしまうのだけど、周波数を合わせるためのあのちまちました儀式めいた動作はやっぱり愛おしい。今日もまた、その夜のさみしさの波長にあった番組を求めて、東京の夜に漂うどこかの小さなブースと通じあうために、見えないつまみをひねり、チューニングし続ける。
松井さんのラジオの相棒はスマートフォン(radiko)
松井友里/主に文章の仕事をしています。ときにチーム未完成としても活動。ねこと観葉植物とごはん(シャルキュトリ、スパイス料理、桃、かたいプリン、大箱系中華)と夏が好き。
llustration:stomachache Edit:ツドイ
(こちらはTBSラジオ「オトビヨリ」にて2021年10月21日に公開した記事です)