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実話 10代で両親を失なった話

初めまして
32年間生きてきて
「感じたこと」「知ったこと」「気づいたこと」を
保存する2025年にします!

僕は
10代で父、母の両方を失っています。
そのことについて保存します!

なかなか信じてもらえないかと思いますが
当の本人である僕自身は
そんなに不幸に思っていないです。

いろいろある
家庭事情の一例として
のぞき見してくれ!

・子供を抱えていて離婚するか悩んでいる人
・10代で親のことについて悩んでいる人


ぜひ、読んでもらいたい!

最初は
父、母、僕、弟の
4人家族だった。

さっそくだが
小学4年生のころ
両親が離婚する。

誰が家族という族を抜け出すのかと言いますと
「母」です。

抜け出すというかは
追い出されたというのがニュアンス的にあっている。

母と僕との関係性をざっくり語ろう。
母が29歳の時に第一子である僕が
とてもかわいい姿で産まれる。

僕が小さい頃は
母はスナックで働いていた。

僕が小学生にあがるころに
僕や弟に気をつかってか夜職を辞めて
飲食店、保険業、スーパーなどで働くようになる。
仕事は長続きしない人だった。

僕の母への評価は
「かなり嫌い」であった。

これは物心ついたころから
家族から追い出されるまで
ずっと嫌いだった。

母は
酒好きでアル中よりだったし
タバコも馬鹿みたいに吸ってるし
掃除が苦手、約束を守るのが苦手、金づかいも下手
かわいいところが無い。

両親から離婚の話を聞いた日は
そんなに悲しくなかった。

そして、なんとなく
「出ていくのは母だけだろうなー」とも思った。

結果、僕も弟も
父と一緒に暮らすことを選択する。

確実に父より母のほうが
トータルの接触時間は長いはずなのだが
父のほうが信用できるように感じていた。
父と暮らすことを選択したのは
その後、一切後悔したことが無い。

要因のひとつと考えられるのは
母からは父の悪口を聞くことがあったが
父からは母の悪口を一回も聞いたことが無かった。

両親がケンカをしているのは、たまに見ていた。
正直、両親が「仲良いな」って思った瞬間が
一度もない家庭だった。

母がいた時期の家族旅行は
なんとなくぎこちない感じで
好きじゃなかった。

現在も母とは連絡先がつながっているが
一度もこちらから連絡をしたことはない。
正直、今どこで何してるのかもよくわからない。
知りたくもない。

母が出て行った後に会ったのは1度のみ
あることをきっかけに会った。
それは父の話のところに書かせていただく。

32歳になった現在
母はもしかしたら
障がい者まではいかないくらいの
知能レベルだったのかもしれないと思う。
発達障がいのグレーゾーンみたいな感じ。

自分の母親だし
見た目が大人の姿しているし
ちゃんとしているものだと期待して接触し続けた結果
すごい嫌いになってしまった。

いろいろ知見が広がった今
自分の親がそっちの人だったかもと思った瞬間
納得感があった。心がスッキリした。

先天的なやつじゃなくて
お酒の影響などによる後天的なやつな可能性もある
それくらい飲んでいた。
酔っぱらった母がすごく嫌いだった。

真相は知らないし、調べる必要もない。

とにかく
母の言ってることが
幼稚で理解のできないことが多く
信用できなかった。

だから
両親の離婚はどちらかというと賛成だった。

親が離婚することについては
外から見ると不幸に思われがちだが
ウチに限っては
母がいなくなった後の家の中のほうが快適になった。

これは強がりでなく、事実である。

母がいなくなってからは
父と話す機会が増えたのも嬉しかったし
父と出かける機会も増えたの嬉しかった。


僕が19歳の時にそんな父が
すい臓がんによって
50歳で死んでしまったのである。


ここからは
父と僕についてお話ししたい。

父が31歳の時に第一子である僕が
とてもかわいい姿で産まれる。

父は25歳の時に母と結婚している。
若くして結婚してしまったから判断を誤ってしまったのだろう。

父の幸せを願うのであれば
僕が生まれる前に離婚していたほうが
もっといい人生だったのでは?と感じる。

父は
僕が生まれ、2年後に弟が生まれ
マンションをローンで購入し
人生の選択肢がなくなっていき
とても腑抜けた状態だった。

仕事は地元の熊本を18歳で出て
愛知県の会社に就職して
亡くなる50歳まで
転職をせず、死んでいった。

仕事が好きだったのかどうかとかはよくわからない。

仕事の話をそんなに聞いたこと無かったし
多分つまんないんだろうと感じていたので
聞こうとも思わなかった。

平日は
7:30に家を出て夜遅くに帰ってくるのが当たり前だった。
夕方に父が帰ってくることは経験したことが無い。

いっぱい働いていたのか
家に帰ってくるのが嫌で遅かったのかは
よくわからない。
休日出勤も多かった印象だった。

お酒は飲み会ぐらいでしか飲まないが
タバコは止めれずスパスパしていた。

休日の過ごし方は
パチンコ、競馬、漫画喫茶にいくこと。

それを18歳から50歳の死ぬ直前まで
していた
なんてつまらない人生なんだろうと
子供ながらに思っていた。

それに加えて
問題児の母が家にいる。

ご苦労様である。

実は僕は
嫌いじゃなかった父に対して
ちょっと気をつかって生活していた。

僕の人生では
グレられるタイミングが無かった。

父の人生はつまんなそうだったので
これで息子がグレてたら、もう可哀そうである。

だから
グレることはなかった。

勉強が少々得意だったこともあり
調子の良い通知表を父に見せるのも意識していた。
父の楽しみが一つでも増えるといいなと思っていた。

父は僕ら兄弟に
期待していなかったのか、興味が薄かったのか、わからないが
「勉強をしろ!」とか
何かをすすめてくることはなかった。

かなり放任主義だった。

そんな父から一度だけお願いされたことがある。
「高校には行ってほしい。」という内容だった。

僕は小中学生のころ
生粋のテレビっ子であり
将来はテレビ番組を作る仕事をしようと
中学生の時に決めていた。

学校も家も面白くなかったので
テレビには
かなり救われた10代だった。

テレビの仕事はやりたい人がやるものだから
学歴は関係ないと思っていたので
高校は行く必要ないと父に説明した日
「高校には行ってほしい。」と言われた。

小中学校が退屈だったので
高校には行きたくなかったが
父から何か頼まれたのは経験が少なくて
ちょっと期待されている感じがして嬉しかった。

僕はその時
「じゃあ塾に行きたい」と言った。

家計に余裕が無い家だと感じていたので
父が
塾に行くお金など出せないと思っていたから
「じゃあ塾に行きたい」と言った。

自分のプランを否定されて
ムッとして意地悪を言った。

そしたら父は
「塾代を出す」と即答してきた。

いらないことを言ってしまった。

行きたくもない学校のために
行きたくもない塾に行くハメになってしまった。

引くに引けず
中学3年生のときに塾に通うことになる。
退屈だった。

適当に学校を決めて高専に進学した。
当然、退屈だった。

高専3年生になったころから
父がたまに
「腰が痛い」と言っている日があった。

父は30代のころに
ヘルニアでの入院経験があったので
「またそれかも」と言って病院には行かなかった。

高専4年生の7月に
父が「腰が痛すぎて起きられない」と言い出す。

耐えきれないと
「救急車を呼んでほしい」と言われる。
その後すぐに入院することとなる。

ある日
父が退院して家にいるタイミングがあった。

「治ったのか?」と聞いたら
「すい臓がんで、そんなに長くない」と
言われた。
よくわからなかった。

そして
9月に19歳になった。

10月に父が亡くなった。

悲しかった。
もっと長生きしてほしかった。

その後
「学校に行ってほしい」と言ってくれる人がいなくなったので
高専を退学した。

10代のころの僕は
父は
楽しみの少ない人生で
可哀そうと思っていた。

父へは
感謝はしていたが
尊敬はしていなかった。

しかし、32歳になった今
少し考え方が変わってきている。

25歳で結婚しているのすごいと思うし
31歳で子供がいることもすごいと思う。

でも
母と結婚しないほうが良い人生だった気もするし
僕ら兄弟が生まれていなかったほうが良い人生だった気もする。
これは32歳の今でもそう思う。

50歳で死んじゃう人の
人生の大部分を食ってしまったなーと感じる。

母とは
父が死んだタイミングで久しぶりに会った。
母はやっぱり母だった。

自分ことばかりしゃべる。
一緒にいると疲れる。

もう、連絡はしないと決めた。

それ以降
電話がかかってくることもあったが
出たことは無いし
会うこともなかった。

だから
母が今も生きているかどうかもよくわからない。
それでいい。


「10代で両親を失うことは不幸なのか?」について
結論は「そんなに不幸に思っていない」となる。


両親の離婚については
外の目を気にするとモヤっとするが
実際、家の中は母がいない方が快適になった。

しかしながら
多少不便なことはいくつかある。

離婚前は友達の前で
家のエピソードを話すとき両親のことを
「父ちゃん、母ちゃん」と言っていたが
離婚後は「親」とふわっとした言い方になった。

友達には離婚していることを言わなかった。
言えなかった。

同情されたくなかったし
気をつかわれたくなかった。

母がいない方が快適であることが
理解されにくいと思っていた。
だから、離婚したことは話さなかった。

20代になってからは
両親がともにいないことを
初対面の人にもしゃべるくらい軽い感じで話している。

このことを話すと
僕がとても苦労していると勘違いして
良くしてくれることが多々ある。
味を占めている。

高専退学についても
本当は辞めたくて辞めているのだが
「父が亡くなって辞めることになったんです」と
しゃべることもある。
そのほうがお得である。

両親がいないメリットも多少ある。

親の介護という心配事も既にない。
これは大きなメリットと感じる。

人生において
気をつかう人が減ったのもメリットである。
19歳からは自分の好きなように生きてきた。

1年ほどフリーターをした後
20歳にテレビのADになり
その後ディレクターにもなった。

「仕事ばかりしてて、つまんないなー」と思ったときに
テレビの仕事を辞めたのは自分の意志100%である。

そのころ
本を読むことにハマっていて
いっぱい本読みたいと考えたときに
疲れない仕事に就きたいと選んだのがキャバクラの黒服だった。

これも両親がいたら
ちょっと選択肢に入れにくい職業かもしれない。

仕事をセーブしていたことにより
4~5年で本を1000冊以上読めた。

当時やっていた
インスタグラムの読書アカウントをのぞいてほしい。

https://www.instagram.com/otobi_dokusho


本を読むのも飽きてしまい
また仕事に精を出そうと思うようになった。
今は東京で営業職を行っている。

愛知県を30年以上出たこと無かったが
縁あって1年前から東京で活動をしている。
結構楽しい。

営業職を選んだのと
東京に引っ越そうと決断できたのも
本の影響だった。

読書は人生の選択肢を増やしてくれる。

そして
人に気をつかわないで選択できる人生は
かなり幸福度が高いと思う。

窮屈そうに生きていた父と暮らしていたことや
父に気をつかって塾や高専に行っていた自分の選択を経て
すごくそう感じる。

父が亡くなってしまい
高専を辞めた瞬間から
自分の人生が始まったというような感じがある。

だから
「10代で両親を失うことは不幸でもないよ」と伝えたい。

離婚したい人は今すぐ離婚したほうが良いし
死んじゃいそうな人は死ぬ前にしたいこと今すぐしたほうが良い。

人のことを気にして
つまんない選択はしないほうが良い。

「辞めるは負けるではない」 
 ↓歌詞引用




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