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退院指導

「娘さん、病院からなんにも指導されないで帰ってきたのよ。一から説明したから、疲れちゃったわ。」

就業時間をとっくに過ぎているのに利用者宅から戻らないと心配していたら、その看護師がぼやきながら帰ってきた。

利用者は80代の女性。訪問看護と訪問介護を受けながらの独り暮らし。今年の春に大腸がんが見つかり、人工肛門(ストマ)増設術を受ける。家に帰りたい一心で彼女はリハビリに励み、何とか在宅復帰にまで漕ぎ着けた。入院中の指導でストマケアにはだいぶ慣れてきたようだが、高齢で認知症もあり、装具の交換には援助が必要だった。そこで退院後はしばらく東京に住んでいる娘さんが同居してくれることになった。

いよいよ退院日が近づいたので、娘さんとケアマネージャー、訪問看護師が病院に呼ばれ、退院前カンファレンス(病状や退院後の生活についての情報交換)が行われた。
とりあえず週に2回、看護師が訪問した時にストマ装具を交換することになった。ただし不測の事態に対応できるよう、娘さんにもストマの管理や装具の交換方法について一通り理解してもらう必要がある。WOCナース(皮膚・排泄ケア認定看護師)から退院指導を受けて帰ってくることになった。

そして、退院後初めての訪問看護。なんと看護師が装具交換を始めようとすると、娘さんはどこかに行ってしまった。まるで他人事である。
ストマのトラブルは訪問中に起きるとは限らない。もちろん困った時はいつでも看護師が助けに行く用意はある。しかし、利用者の家が遠かったり、他の利用者に対応していたりすれば、すぐに駆けつけることが難しい。例えばパウチから便が漏れた、皮膚がただれているなど、突発的なトラブルが起こった時、家族に応急処置をしてもらわなければならない。娘さんにも少しずつストマの扱いに慣れてもらう必要があった。

「ヘルパーさんが全部してくれるから、娘さんは何もしなくていいですよ。」

こんな風に病院で言われたらしい。WOCナースは退院指導と称しながら、ろくな説明もせず、一人でさっさとパウチ交換を済ませてしまったようだ。そして娘さんは、目の前で繰り広げられるWOCナースの手際のよい交換をただ眺めていただけ。
さすがにストマケアのリーフレットくらいは持たされて帰ってきていると思ったが、一切ない。やむを得ず訪問看護師が「我流の」退院指導をするはめになった。

どうして退院前カンファレンスの内容がWOCナースに引き継がれなかったのだろうか。家族、訪問介護、訪問看護、病院が退院後の彼女の生活をどのように支えていくのか、WOCナースはイメージできていなかったのだろうか…。いやイメージできていなかったわけではない。もちろん退院前カンファレンスの内容が引き継がれなかったわけでもない。どうやら退院指導がうまくいかなかった理由は別のところにありそうだ。

「帰ったら娘さんが一緒に住んでくれるそうで、良かったですね。」

入院中、看護師たちに何度か声をかけられた。しかし彼女の返事はいつもこうだ。

「私にはAさんがいるからいいのよ。」

Aさんとは訪問看護師のこと。退院後しばらく娘さんが同居することになっていると話をしても信じてもらえない。遠くの娘よりも近くの訪問看護師。娘以上に慕っているから、病院の看護師もWOCナースも訪問看護師にすべて任せておけば問題ないという錯覚に陥ってしまったのかもしれない。

たしかに、コロナ禍の影響で娘さんは実家から久しく遠ざかっていた。しかし、実に2年ぶりの再会だというのに、面談室に案内された彼女は娘の方には向かわず訪問看護師の隣におもむろに座った。先生の口から娘さんとの同居の話が出ても半信半疑。娘さんは口にこそしなかったが、「私がいなくたって、看護師さんがいるからいいんでしょ!」と妬きもちを焼いていたに違いない。

退院指導がうまくいかなかった理由がなんとなくわかってきた。


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