「ロア:ヒトならざるモノ」第1話
◇ 1 ◇
夢の中で、神坐ソフィアは、濁った景色の中でバッドロアに向けて銃を構えている。夢の中のバッドロアに、定まった形はない。黒い靄のようなものがぐにゃぐにゃと揺蕩って、ソフィアに対して敵意を向けている。ソフィアはきわめて冷静に、黒い靄に向かって銃弾を放った。靄は銃弾を受けて千々に散らばる。ソフィアはそれを見て、ふう、と息を吐く。
この世には、ロアと呼ばれる生物がいる。かつて空想上の生物とされていたモノたちの総称だ。天使や妖精、それから悪魔。あるいは妖狐や八咫烏。そういったモノたちを、まとめて『ロア』と呼ぶ。そして人間に害なすロアは、『バッドロア』と呼ばれる。
かつてソフィアの両親は、バッドロアに殺された。ソフィアがまだ10歳のときだ。三人でドライブをしているときに、道路脇から真っ黒な一角獣が現れた。その一角獣を避けるために、ソフィアの父は急ブレーキを踏んだ。そして真っ黒な一角獣は、ソフィアたちの乗る車に向かって突進した。車を大破させ、ガラスを破り、運転席と助手席に座っていたソフィアの父と母をその鋭利な角で刺し殺した。ソフィアは後部座席で怯えながら、父と母が息を引き取るのを眺め続けることしかできなかった。真っ黒な一角獣は周囲の通報によってすぐさま取り押さえられ、処分された。ロアは心臓部分にある『核』を破壊されると、全身を形成する力を失い、空気に溶けていく。その一角獣の『核』も、その場で破壊され、黒い一角獣は形を失い、黒い靄となり消えていった。
「かわいそうだね、先生。あたしが殺してあげよっか?」
夢の中だ。ソフィアの夢の中なのに、他人の声がした。ソフィアは驚き、顔を上げる。瞬間、ぼんやりとしていた夢の中の景色が、教室の中に変化した。ソフィアが化学教師として勤める、私立音無女子高等学校の教室だ。教卓の傍でソフィアは銃を構えていた。バッドロアは近くにはいない。しかし、目の前には、見覚えのある女子生徒が、無垢な笑みを浮かべながら立っていた。
「……どうして、私はこんな夢を見ているのかしら」
恋ヶ崎めあ。一年三組の生徒だ。ソフィアのもとに、何度か授業の質問をしに来たことがあるので、名前を覚えていた。
「先生の夢、すごくかわいそうだね。バッドロアを殺し続ける夢なんて。いつもそうなの?」
めあは、いつもそうしているように、校則違反だらけの服装をしていた。学校指定のものではないカバン、靴下、それからインナーカラー。守っているのは上履きくらいだ。ソフィアはめあをじっと見つめた。めあは教卓に肘をついて、ソフィアを見つめる。
「あ、先生、これが『自分だけの夢』だって思ってる?」
「何を……」
「これは確かに、先生の夢。でも、あたしはそれに干渉ができる」
にいっ、とめあは笑った。めあの背後から、黒い靄が現れる。形のないそれが、ソフィアに向かって襲いかかる。ソフィアの左脚を狙った攻撃だった。ソフィアはそれを避けきれず、左脚を負傷した。避けようとした弾みに、履いていたパンプスも脱げてしまった。ソフィアは、ぎりっとめあを睨みつけながら、銃に弾薬を装填した。めあは微笑んでいるだけで、悪意や敵意は感じられない。
「……恋ヶ崎さん。あなた、バッドロアなの?」
「やだなぁ、あたしは善良なロアだよ。種族だって、ただの夢魔。人間に害なすことなんて、考えたこともない」
夢魔。人間の夢の中で、みだらな行為をするとされるロアの一種だ。
「何が目的なの。私をどうするつもり」
「あたし、先生のことが好きなの」
「は……?」
「一目惚れってやつ。先生のことが好きだから、先生のために、バッドロアをたくさんたくさん殺してあげる。先生が、こんな夢を見なくて済むぐらい」
ゆっくりとめあはソフィアに近づいて、ソフィアの手に触れた。銃を持つ手に、少しも怯まずに触れ、それからめあはその銃を撫でさすった。
「だから先生、あたしを好きになってね」
その声はひどく甘く、ソフィアの脳を強く揺らした。ソフィアの夢は暗闇の向こうへと消え、制御不能な状態で、無意識の彼方へと落ちていった。
「恋ヶ崎さん。頭髪、マニキュア、靴下、リュック。すべて違反よ」
「えー?」
翌日、登校時間帯。生徒用昇降口で、教師数名が集まって生徒たちの服装検査をしていた。めあはソフィアを見て、にこにこと笑っていた。
「でも先生、このリュックかわいいでしょ。靴下もリボンついててかわいいし、ネイルも髪もピンクでかわいいでしょ」
「どれだけかわいくても違反は違反よ。放課後までに反省文を書いて持ってくること」
ソフィアは400字詰めの原稿用紙をめあに手渡した。めあは「はーい」と頷いて、原稿用紙を受け取った。
「先生のとこに持って行けばいいの?」
「そうね」
「先生って、放課後あんま職員室にいないよね。化学室にいる?」
「ええ。準備室にいるわ」
「了解〜。じゃあ先生、また放課後にね」
「あっ、廊下は走らない!」
ぱたぱたと廊下を駆けながら、めあは教室の方向へと向かっていった。その後ろ姿を見つめながら、ソフィアは、昨日見た夢を思い出す。
『あたしを好きになってね』と、めあは告げた。あの夢が、本当にめあの干渉を受けていたのなら――、それは、めあからの愛の告白ということになる。
告白。
ふ、とソフィアは小さく笑う。ホームルーム5分前を報せるチャイムが鳴り、服装検査は終了となった。解散し、各々職員室や教室、教科準備室へ向かう。ソフィアも化学準備室へと向かった。
日本人の母とカナダ人の父の間に生まれたソフィアは、昔から数えきれないほど告白されてきた。光に透ける金色の長い髪と、空を映したような水色の瞳。その見目に心奪われる人間は多いようで、告白されるたびにソフィアはうんざりしていた。自分の見た目の物珍しさだけで告白されることに飽いていた。
一目惚れ、とめあは言った。つまり、めあも他の人間と同じということだ。めあは『ロア』だけれど、それでも尚、人間と同じ感性でもってソフィアに恋を囁いたのだ。
馬鹿げたことだ。
ソフィアには、恋も愛も必要ない。ソフィアにとって大切なのはただ一つ、この世に蔓延するバッドロアを残らず駆逐することだけだ。そのためなら、死ぬことさえ厭わない。
死ぬことさえ。
化学準備室の窓から空を眺めていると、突如、ソフィアのスマートフォンがけたたましい音を立てた。緊急配備用の警報だ。『聖櫃』からの報せは、所属する人員全員に宛てて流される。『聖櫃』は、バッドロアを排除するための機関で、ソフィアはそこに所属している。白衣の下に隠したトンファーと拳銃の存在を確かめていると、警報が止まり、音声が流れた。
『緊急警報! 音無女子高等学校の校舎内に、バッドロアが発生! 種族は屍鬼! 近くの人員は至急――』
そこまで聞くのと同時、きゃああ、と叫び声が廊下の向こうから響き渡った。ソフィアは勢いよく化学準備室を飛び出す。
渡り廊下の先に、一人の女子生徒がいた。屍鬼のバッドロアは、腐った屍肉をぼとりと落としながら女子生徒に近づこうとする。女子生徒は腰を抜かして立てないようで、震えながら涙を流していた。
「動かないで!」
ソフィアの言葉は、屍鬼にではなく、女子生徒に向けたものだった。女子生徒がソフィアを見る。ソフィアは屍鬼に向けて銃を構えた。この距離なら、間違いなく命中させられるだろう。『核』に当たれば僥倖だけれど――、外してしまえば女子生徒に怪我をさせてしまう。大丈夫、大丈夫だ。緊張しながら、照準を合わせる。
「先生、待ってて」
背後から軽やかな声がして、ふわりと飛んでいく姿があった。ソフィアはその姿に目を奪われてしまった。めあの背中からは黒い羽が生え、空中を勢いよく飛んでいく。
「ひっ……!? あ、悪魔!?」
「ざんねーん、ただの夢魔。ちょっとおやすみしててね」
怯える女子生徒の顔の前に手をかざし、めあはその女子生徒を眠らせた。それから女子生徒を抱いて、ソフィアのもとまで飛んでくる。一連の動きに、屍鬼はまるで着いて来られなかった。
「これで思う存分撃てるでしょ」
「助かるわ」
獲物を奪われた屍鬼は、めあとソフィアを目掛けて緩慢な動きで向きを変えた。周囲に他の人間はいない。ソフィアは銃を構え、屍鬼に向かって銃弾を放った。バン、と音がする。頭を撃ち抜いた。チッ、と舌打ちして、ソフィアは照準を少し下げる。狙うべきは心臓だ。心臓を目掛けて、もう一発。
バン、と音がして、それからパリンとガラスが割れるような音がした。『核』を撃ち抜いた音だ。屍鬼が、落ち窪んだ目の向こうで、絶望を訴えかけてくる。しかしソフィアはそれに応えない。人間に害なすバッドロアは、死ぬさだめにあるのだから。
屍鬼だったものは、黒い靄となり、空中を彷徨うように揺蕩ってから、窓の外へと霧散していった。それを見つめ、ソフィアは小さく息を吐く。
「先生、どう? ナイスアシストだったでしょ」
「……そうね」
不本意ではあるし、授業中にも関わらずめあが颯爽と姿を現した理由についても問い詰める必要がある。しかし、助かったことは事実だ。
「ありがとう、恋ヶ崎さん」
ソフィアがそう告げると、めあはきょとんと目を丸くしたあとで、にやあっと笑った。いたずらを思いついた子どものように。
「先生、お礼にあたしのこと名前で呼んでよ」
「断るわ」
「あたしの名前知ってる? めあって言うの。かわいいでしょ」
「そう」
「塩対応!」
二人で騒いでいる間に、『聖櫃』の人員がやってきて、ターゲットになった女子生徒の保護にあたった。女子生徒は気を失って眠っていたが、それはめあの采配だ。めあはどうやら、人の夢に干渉するだけでなく、人を眠らせることもできるらしい。
『聖櫃』本部に報告するために事情聴取を受けて、しばらくしてからめあとソフィアは解放された。以降の授業はすべて中止となり、生徒にも教職員にも、帰宅指示が出された。
「先生は帰らないの?」
「ええ。『聖櫃』としてやることがあるの」
「手伝おうか?」
「結構よ。それより早く帰りなさい」
「はあーい」
ふふーん、と鼻歌をうたいながら、めあが廊下を駆けていく。
「廊下は走らない!」
ソフィアの注意を軽くいなすように、めあが笑った。ソフィアは「まったく……」とため息をつきながら、少しだけ笑った。