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「ロア:ヒトならざるモノ」第3話

◇ 3 ◇

 5年前。恋ヶ崎めあは11歳で、近所の小学校に通っていた。一度帰宅してから駅前の学習塾に向かい、中学受験のための勉強をしてから再度帰宅すると、いつも香ってくる夕食の匂いはどこにもなかった。それどころか、濃厚な鉄錆の匂いがした。それが血の匂いだと気づくのには時間が掛かった。何せ、大量の血の匂いなど嗅いだことがない。
「おや。この家の娘ですか?」
 おそるおそる廊下を進み、リビングに続く扉を開けると、両親がダイニングテーブルのそばで倒れ伏していた。その近くには、黒いスーツ姿の男がしゃがみこんでいる。
「ひっ……!」
 めあは息を呑んだ。悲鳴を上げるよりも先に、生命の危機を感じた。ここで叫んでは自分も殺されると思った。……両親は、とてもではないが生きているようには見えなかった。
「そう、叫ばないのは賢明な判断ですよ。あなたが叫ぶその瞬間、わたくしはあなたの喉笛を掻き切りますからね」
 にいっ、と男は目元を歪め、唇を吊り上げて笑った。その笑みは恐ろしく、めあは口元を手で覆って、必死で声を出さないよう努力した。
 両親からは、とぷとぷと血液が漏れている。『ロア』は通常、その身に宿る『核』を壊されなければ、肉体が消滅することはない。めあは、目の前の男が人間であることを願った。単純な快楽殺人鬼が、たまたま両親を襲ったのだと信じたかった。そうであれば、この男が出て行った後、両親はゆっくりと息を吹き返すはずだ。
「羽が必要だと思ったのですよ」
 しかし、めあの祈りは届かなかった。男はめあの目の前に手をかざした。めあは白い靄に意識が包まれるのを感じた。これは他でもない、めあや両親と同じ、夢魔の力だ。目の前の男も夢魔なのだろうか? 同類を殺しに来たのだろうか? どうして? なぜ?
 めあの疑問は意識と共に靄の中に包まれて、遠く彼方へと去って行った。
 次に目を覚ましたとき、めあは『ロア』専門の病院のベッドの上にいた。真っ白な天井を眺め、どこからが夢だったのだろう、と逡巡する。すべて夢だったらいいのにな、と思った。塾で倒れ、すべて悪い夢を見ていただけであったのなら、どれだけ幸福だろう。
 コンコン、とノックの音がして、「はい」と応じる。病室は個室だった。がらりと開いた扉の向こうからやってきたのは、『聖櫃アーク』と名乗る組織の、男女二人組だった。男は岸波きしなみと名乗り、女は咲川さきかわと名乗った。二人はどちらも、どこかで見たことのあるような顔をしていた。
「恋ヶ崎めあさん。無事でよかった」
 咲川は、微笑みながらそう告げた。二人はベッド脇の椅子に座り、めあを見つめる。
「……何があったか、覚えているかい?」
 岸波の問いに、めあは、記憶の中にある光景が悪い夢のたぐいでないことを悟った。黙りこくって拳を握るめあに、岸波と咲川は視線を交わし合い、気まずそうに頷いた。
「覚えているのね。……つらかったでしょう」
「あの男はバッドロアだ。俺たちが必ず処分する。そのためにも、めあさん、きみに協力してほしい」
 バッドロア。『ロア』の中でも、人間に害をなす存在だ。その害が、自分の両親にも――『ロア』である両親にも及んだのだ。
「……パパとママは、どうして狙われたの? もう殺されちゃったの? あの男は、誰?」
 矢継ぎ早にめあは訊ねた。岸波と咲川はめあの様子を窺いながら、一つずつ質問に答えてくれた。男の正体は、黒河喪服と名乗る屍体絡繰師ネクロマンサーだという。黒河は、手に入れた屍体の力を手にすることができる。夢魔は、背中から羽を出し入れして自由に空を飛べる能力を持つ。その力を欲して、めあの両親を狙ったのだろう、ということだった。
 『ロア』は通常、『核』を壊されると、靄となり大気に溶ける。しかし『核』を抜かれると、その身体だけを保ったまま、生きた屍となる。
「じゃあ、パパとママは……」
「おそらく、もう……」
 濁された言葉の先を想像することは容易だった。『核』を抜かれ、力を奪われ、そして残った身体は道具として利用されるのだろう。あまりにも残虐な行為だ。
 めあは俯き、強く強く拳を握った。心の中に、どす黒く澱んだ感情が浮かび上がってくる。吐き気がした。憎くて仕方なかった。殺さなくてはいけない、と思った。いや、殺してはいけない。殺すよりももっと残虐で、残酷な方法で、あの男を苦しませなくてはならない。そのためなら。
「岸波さん、咲川さん」
 そのためなら、なんだってする。
「あたしを、利用して」
 なんだって。

 屍鬼アンデッドを眠らせた後、程なくして『聖櫃アーク』の職員がやってきた。前回の屍鬼アンデッド騒動のときとは比べものにならない数の人間がやってきて、屍鬼アンデッドの処分や後処理にあたった。すべての生徒に下校命令が出され、職員も速やかに帰宅するように、と言い渡されたが、ソフィアとめあは、化学準備室で向かい合っていた。
 めあの過去を聞いて、ソフィアはやりきれない気持ちになった。ぎゅっと拳を握る。自分の中に、絶やしてはならない炎があることは理解していた。憎悪という名のその炎は、激しく燃えて心を摩耗させる。
 バッドロアを殺したところで、死んだ両親が喜ぶわけではない。そもそも、人間もロアも、死んでしまったらそこまでだ。霊魂や転生、死後の世界というものは存在しない。人間もロアも同じだ。天使も悪魔も、御伽話や伝承に出てくるような姿をして、現世に生まれ出てくるだけだ。天国も地獄もない。そして死後は、人間もロアも、空っぽの肉体だけが残る。
 復讐は何も生まない。わかっている。そしてそれは綺麗事だ。だからソフィアは、めあにそれを言わなかった。復讐することでしか満たされない心がある。憎悪し続けることでしか保てない形がある。炎がいずれ自分自身を焼き尽くしてでも、ソフィアは、ソフィアたちは、その炎を抱き続けなければならない。
「同情も説得もいらないよ」
 めあは告げた。
「わかっているわ」
 ソフィアはそう返す。
「でも、よかった。岸波さんと咲川さんに頼まれて、いくつかのバッドロアを処分してきたけど、これまであの男につながるようなバッドロアはいなかったんだもん」
「……私に近づいてきたのは、目的があってのことだったの?」
「なんでそうなるの。違うよ」
 めあは椅子から立ち上がり、ソフィアに接近した。ソフィアは椅子に座ったままで、めあの顔を見上げた。めあが机に手をつく。
「先生のことが好きなのは本当。きれいで可愛くてうつくしくて、この世のすべてを諦めて、絶望して、憎悪しているその顔に――あたしは一目で恋に落ちたの」
 さら、とめあがソフィアの髪を撫でる。ソフィアは目を見開いた。瞳の色や髪の色を褒められたことは数あれど、自身に滾る憎悪を称賛されたことなど一度もない。『聖櫃アーク』の職員でさえ、憎しみや後悔を抱くことについて否定的な人間は多い。
「だってさ、憎いよね。許せないよね。殺したいよね。絶対に、死ぬよりもむごい方法で苦しめてやらなくちゃって、そう思うよね、先生」
 夢見るようにめあが告げる。その心臓を動かす動力の正体に、ソフィアは背筋が冷えるのを感じた。ソフィアは人間で、ソフィアにできることは限られている。『聖櫃アーク』では、いたずらにバッドロアを弄んだり嬲ったりすることはしない。しかし。
 しかし――目の前にいるこの少女は。人間ではない、ロアである恋ヶ崎めあは。ソフィアには思いつかない方法でもって、屍体絡繰師ネクロマンサー・黒河喪服を苦しめるのかもしれない。
「……正論は、私には言えないわ」
 めあが正しいとは思えない。自分が正しいとも思わない。そして、世界もまた、正しくはない。
「けれど、バッドロアを野放しにするわけにはいかない。あの男を処分することに関して、異論はないわ」
 ソフィアはめあの手を取った。めあが目を見開いてから、ふっと優しく微笑んだ。
「眩しいなあ、先生は」
 嬉しそうに告げながら、めあはソフィアの手を握った。

 どんなに非日常的な物事が起きたとしても、時間はそれらを覆い隠し、『日常』の中に丸め込んでしまう。ソフィアの両親が死んだ後も同じだった。ソフィアは悲しみに暮れて絶望の中にいるのに、時間はソフィアのことなんて置いてけぼりにして進んで行った。『聖櫃アーク』に保護され、専用の施設での生活が始まり、慣れない環境に身を置く内に、目が回るほどの忙しなさで記憶は薄れていきそうになった。記憶が朧げになり、悲しみが癒え、絶望が消えて無くなることをソフィアは嫌悪した。それは恐ろしいほど不誠実な所業に思えた。目の前で死んでいった両親を、決して忘れたくなどなかった。
 だから、ああ、これでいいのだ、とソフィアは思った。夢の中、真っ黒なバッドロアに向けて銃を撃ちながら、ソフィアは凪いだ気持ちでいられた。これこそがソフィアの生きる意味であり、生き永らえた者の義務であるような気がした。バッドロアに殺された両親のために、バッドロアを殺し続ける。復讐の炎に身を焼き続ける。それだけで、いいじゃないか、と思ったのだ。
「先生、また同じ夢だね。あたしと一緒」
「……恋ヶ崎さん」
 夢の中に、めあが現れる。めあは「散々ばらばら」とだけ呟いた。再生し続けていた不定形のバッドロアが、一気に形を失う。
「あたしはね、あの男を殺す夢を見続けてるよ。憎くて憎くて、壊れそうなぐらい憎くて――あたしはずっと夢見てる。あの男を殺す日を」
 めあが腕を左から右へ振り払うと、立体映像のように、黒河喪服の姿が現れた。めあは大ぶりの鉈を握り、その男へ向かって鉈を振り下ろす。ソフィアは思わず目を逸らした。濡れた音も血の匂いもしない。ゆっくりと視線を戻すと、めあが床に座り込み、顔を覆っていた。
「夢見てるんだよ。夢に見てるんだよ。夢を見ているんだよ。あたしはできる。絶対にできる。絶対絶対絶対、あの男を、苦しめなくちゃ」
 めあの声は震えていた。ソフィアはその隣に膝をつき、めあの肩を撫でる。
「恋ヶ崎さん……」
 通常、バッドロアへの攻撃は、心臓にある『核』の破壊を目的として行われる。なぶるように痛めつけたり、いたずらに『核』を外して銃を撃ったり、ということを、『聖櫃アーク』の者は行わない。対象がたとえバッドロアであろうとも、それらはかつて生命だったモノであり、無害だったモノだ。人間や善良なロアに害をなすから、『バッドロア』という名称をつけて処分対象にしているだけだ。
「怖いの」
 ぽつり、懺悔するようにめあが呟いた。ぽたぽたと床に涙の粒が落ちる。
「あの男をなぶり殺しにして、極限まで苦しませて、死ぬよりつらい目に遭わせて。そしたらあたしは、元の自分じゃいられない」
 涙に濡れた顔で、めあがソフィアを見つめる。
「そのときは、先生、あたしを殺して」
 ソフィアは目を瞠った。諾と頷けるわけがない。めあが、ぎゅっと拳を握る。
「先生の殺したいバッドロアは、あたしがぜんぶ殺してあげる。だから――バッドロアになったあたしを、どうか、殺して」

 めあの懇願に、ソフィアはぎゅっと眉間に皺を寄せ、首を横に振った。そしてソフィアは、めあを抱き締めた。ここにいるめあは、幼いソフィアにとてもよく似ていた。あるいは、現在のソフィアにさえ似ていた。ソフィアはめあを抱擁しながら、自分自身を抱き締めているような錯覚を起こした。
「先生……?」
 戸惑っているめあの声がする。ソフィアは、自分でも、どうしてこんなことをしているのかわからなかった。けれどきっと、ここに同情も倫理もなく、あるのは身勝手な我儘だけだった。
「恋ヶ崎さん」
 ここは、地の底だ。憎悪という炎に身を焼かれた先に堕ちる場所だ。あるいはこの場所を地獄と呼ぶのかもしれない。だとすれば、一人より二人でいることの、なんと心強いことか。
「終わらせましょう。あなたの夢も、私の夢も」
 めあが声を上げながら涙を流す。慟哭がソフィアの夢の中に響き渡った。ソフィアはめあをきつく抱き締めた。きつく、きつく。決してめあが、壊れることのないように。


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