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短編小説「乗り過ごし鉄道」

「次は新宿、新宿です」
 風見奏は、平日の夕方の程よく込み合った電車に、一人で乗っていた。
 心配性な母さんの方針によって、これまでの十二年間は、両親か友達が一緒でなければ電車に乗ったことがなかった。
 しかしこの春から奏は、電車で二十分はかかる中高一貫校の生徒だ。さすがの母さんも、一人での乗車を許可しなければならなくなった。
「大丈夫、大丈夫! もう十三歳だよ」
 親の心子知らずよろしく、奏は根拠のない自信を見せつけて何度もそう言った。そして、入学式の翌日は、身も心も引き締まる思いで、一人で電車に乗り込んだ。

「……なのに、乗り過ごすって」
 人波にのまれていつの間にかおり立っていた見知らぬ町の切符売り場で、奏は大きなため息をついた。
 今日の放課後は、友達と文化部を十個以上も見学した。新しい校舎を迷いながら歩き回ってすっかり疲れた奏は、たまたま座れた電車で眠ってしまった。乗り換えで降りる新宿駅に着いても気がつかないほどぐっすりと。
「……入学早々何やってるんだか。母さんには黙ってないと、『ほら言ったでしょう』って言われちゃう」
 奏は、自分の情けなさにうんざりしながら、駅の外にある周辺の地図を見に行った。
「えっと、逆向きのJRに乗って戻るか、ちょっと歩いた先にある地下鉄でも帰れそうだなぁ。どっちにしよう」
 突然、ゴウッと音を立てて強い風が吹いた。
 なんの香りもしない、温かくも冷たくもない風だ。しかしその風は、奏の心に何か温かいものを植え付けた。
「……せっかくだし、ちょっと散策しようかな」
 地下鉄の駅までの道順を記憶すると、奏はアーケードがかかった商店街を歩き始めた。
 大きなクマのぬいぐるみが置かれたレコード屋。
 革張りのソファや大きな振り子時計、足踏み式のミシンなどを扱う古い家具屋。
 エプロン付きのワンピースを着たトルソーが並ぶ古着屋。
 不思議な店をいくつも通り過ぎると、商店街の終わりが見えてきた。地下鉄の駅は、アーケードのない白いレンガ調の開けた通りの先にあるらしい。
 しかし奏は、右手に見える、車一台がようやく通ることができる横道が気になった。
 石畳の道の端には、置き看板が点々と並んでいる。
 また強い風が吹く。
 奏はその風に背中を押されるように、細い道を歩き出した。
 一枚目の看板は文具屋のもので、ペンやインク瓶が描かれていた。
 その次はヘアサロン、古着屋が二軒続いて、紙製品の店、骨董品屋、そして……。
「……のりすごしてつどう?」
 そう書かれた七つ目の看板の店は、木造の二階建ての建物だった。一階のドアは閉じられ、二階に続く階段の手すりに「Open」と書かれた木札がかかっている。
 今のわたしにぴったりの名前のお店。
 奏ら胸が高鳴るのを感じながら、ギシギシときしむ階段を上っていった。
「……うわぁ」
 古い木の香りがする店の中は、壁三面が本棚になっていて、絵本がぎっしりと詰まっていた。
 中央には、背の低い木製の丸い本棚が設置され、上に置かれたレコードプレーヤーからはジャズが流れている。どうやらここは絵本の店らしい。
 奏は肩にかけている鞄を前で抱え、狭い店内に足を踏み入れた。途端に、床がギッと音を立てた。
「……あ、ポーラ・バルバーニーだ。こっちはチャーリー・エイムズ」
 ポーラ・バルバーニーは動物を主人公に豊かな自然を描く作家で、チャーリー・エイムズは「ネイムズ」という独自のキャラクターを通して人間社会を描く作家だ。二人とも奏が好きな作家で、家の本棚には彼らの翻訳された絵本がそろっている。
 しかし今見つけたのは、どちらも原書、つまり英語で書かれた本だ。
 よく見ると、店の絵本は全て原書の新品か古本のようで、読めない文字の背表紙もあった。
 記号のような文字で書かれた絵本を手に取る。
 表紙には、ガラスの城が描かれていた。柱に施された天女の彫刻、尖塔の先端についたフクロウの彫像、荘厳な鐘、ハの字型に広がった大階段……、すべてがレースのように細かく描かれている。
 奏はゴクリとツバを飲み込み、絵本を開いた。

――重たい両開きのドアを開けると、ガラスでできた冠や指輪など、宝の山が。
『こんなにきれいなのに、ひっそりと輝いているなんて、もったいないわ。どうして誰もいないのかしら』
 宝の山に別れを告げると、次の部屋には、ガラスでできた甲冑がズラリと並んでいた。今にも動き出しそうな躍動感に、心臓が飛び跳ねる――

 ドシンッ ギシシッ

「あいたたた!」
「わっ! 驚いた!」
 同時に声が上がり、奏ともう一人の声の主は顔を見合わせた。
「あ、お客さんがいたんですね。大丈夫ですか?」
 もう一人の声は、階段上の狭い空間からひょっこりと現れた店員のものだった。
「だ、大丈夫です。ごめんなさい、夢中になっちゃって……」
 あれ、今、ガラスのお城にいたよね?
 ガラスの甲冑が目の前に現れて、驚いて、しりもちついちゃって……。
 奏はドキドキしながら、ゆっくりと立ち上がり、改めて店員を見た。
 滝のように真っ直ぐな黒髪と、大きめの瞳、白いTシャツにジーンズというごくありふれたいでたちにもかかわらず、奏は店員から目が離せなかった。
 店員は奏の持っている絵本を見ると、子どものように無邪気な表情を浮かべた。
「あ、その絵本いいですよね! 私も好きです。ジェイネーキンっていう作家で、ストーリーよりも、想像上の建物や品物を細かく描くのが得意なんです。彼の他の作品もありますよ。見ます?」
 奏がハッとして「いいんですか?」と言いかけた時、ボーンッと大きな音が鳴った。
 奏と店員は同時に、壁に掛けられた古い時計を見上げた。
「六時! うわぁ! 大変!」
 奏は手に持っていた絵本を棚に戻した。
「また来ます! 門限があって……」
「それは大変だ。またいつでもいらしてください。あ、階段気をつけて!」
「はいっ」と答えながら、鳴き声のようにギイギイ言う階段を駆け下りた。
 それから、大急ぎで家に帰る間も、門限に間に合わず母さんに怒られている間も、奏の頭の中は、「のりすごしてつどう」でいっぱいだった。
 また明日、行ってみようかな。
 奏は手につかない宿題から顔を上げ、本棚に入ったたくさんの絵本をジッと見つめた。

 次の日の放課後は、二十以上ある運動部の半分を見学した。奏は運動神経が良い方ではないし、大会に出たいという熱意もない。目をギラギラさせて迎えてくれる先輩たちに、心が痛くなった。
「詩織は部活どうするか決めた?」
「うんっ。合唱部にしようかなって」
 同じ路線で帰る詩織は、小学校からの友達だ。音楽の授業で、合唱のソロパートを務めることも多かったため、納得の選択だ。
「奏も一緒にやろうよ。名前もぴったりじゃない。『奏でる』で『ソウ』なんだから」
「前向きに考えてね!」と言い、詩織は代々木駅で降りた。
 新宿駅を通り過ぎ、昨日降りた駅に着くと、奏は軽やかにジャンプしてホームに飛び降りた。
 その瞬間、ゴウッと音を立てて強い風が吹いた。

 相変わらずギシギシ鳴る階段を上って店をのぞき込むと、店員もお客もいなかった。
 さっそく昨日とは別の本棚を物色し始める。
 この本棚の絵本の文字は、アルファベットに近かったけれど、相変わらず読むことはできなかった。
 あの店員さんは、読めるのかな……。
 手に取ったのは、A四サイズよりも大きな絵本。
 森に暮らす人々の生活が優しいタッチで描かれている。可愛らしい動物や虫、生き生きとした草木、その中を駆けるはつらつとした笑顔の子どもたち。
 奏の口元は自然と緩んだ。

『――雪が積もったわ!』
 三段の雪だるまは、ニンジンの立派な鼻をもらって得意げだ。 三対三に別れて雪合戦。でも、雪玉を作る時間も惜しい子どもたちは、手で掴んだ雪を放るだけだ。
『まだまだ遊び足りないよ。ソリすべりをしよう!』
『ぼくはもう一体雪だるまが作りたい! 一人じゃさみしいだろう――』

「そしたら森で一人ぼっちじゃないもんね! 賛成!」
「それじゃあ、もう一本ニンジンがいりますね」
  声に驚いて顔を上げると、昨日の店員が立っていた。
 奏は、自分の顔がどんどん赤くなっていくのがわかった。同時に、真冬に外で遊んだあとのように手がかじかみ、プルプルと体が震えていることに気がついた。
「ご、ごめんなさい。またおっきな声だして……」
「いえいえ。いらっしゃいませ。今日も来てくれたんですね」
「はい。あ、今日は門限に間に合うようにアラームをかけてあるので、バタバタしません」
 奏がスマートフォンを見せると、店員は「用意周到だ」と笑った。
「ごゆっくり、と言いたいところだけど、昨日話したジェイネーキンの絵本を用意しておいたんです。よかったらどうぞ」
「うわあ! ありがとうございます!」
 奏はウサギのようにぴょんと本に飛びついた。
 竹を複雑に組んで建てた見張り台、極寒の地に建つ氷柱のように細長い氷の塔、クモの糸を編んで作った無数のテント……。
 その一つ一つをじっくりと訪ねているうちに、窓の外ではどんどん日が影っていった。

 やかましい電子アラーム音で顔を上げた奏は、外の暗さにあんぐりと口を開けた。
「その絵本、避けておくので、またいつでも来てください」
「え、でも売り物なんじゃ……」
 本を整理していた店員は、にっこりと笑って「気に入ってくださった方にじっくり見てもらいたいですから」と言った。

 この日から、学校の友達の誘いを断り、「のりすごしてつどう」に寄って絵本を読んでから帰るのが、奏の日課になった。
 店員は時々階段上から顔を出して、奏が読んでいる絵本についてぽつぽつと話をしてくれた。その話を聞くのも楽しみの一つになった。

「――ねぇ、奏って最近の放課後何してるの?」
 理科の実験の片づけをしている奏のところに、春から友達になった美紀がやってきた。手ぶらの美紀は、気だるげに机に寄り掛かった。
「え、どうして?」
 奏は試験管を洗いながら、美紀の方を見ずに答える。
「最近すぐに帰るから、気になったの」
「えぇっと、ちょっと用事があって……」
 隠す理由もなかったけれど、なぜかあの店のことを話す気にはなれなかった。
「……ふーん。そうなんだ」
 ひんやりとした不安に襲われ、奏は、水を止めて美紀を見た。
「で、でも今日は……」
「あ、別に、付き合い悪い人が来なくても困らないから」
 奏が何か言う前に、美紀は奏の友達まで引きつれて、行ってしまった。
 美紀ちゃん、怒ったかな。
 隠し事して、嫌な奴だと思われたかな。
 謝った方が良いかな。
 でも、わたし、謝らなきゃならないことなんて、してない……。
 グルグルと思考を巡らせているうちにチャイムが鳴り、奏は急いで試験管を片づけて、教室に戻った。

 ホームルームが終わると、ほとんどの生徒が部活動の仮入部へ向かった。美紀は友達に奏を避けるように仕向けたらしく、誰も奏にさよならを返してくれなかった。

 奏はすっかり見慣れた町を足早に歩き、「のりすごしてつどう」の看板を横目に、きしむ階段を駆け上がった。今日も誰もいない。
 ホッとため息をつき、背の低い本棚の絵本を手に取った。
 虹がかかる空の下、釣りをしたり、木に登ったり、焚火をしたりする二人の少年の後姿が描かれている。

『――釣り糸を垂らしていると、いろんな音が聞こえて来るな』
『うん。風が水の上を走る音。木の葉が擦れる音』
『空を割るように鳴き声を響かせる鳥の声や、羽音も――』

「……わたしは、二人の息遣いが聞こえるよ」
「私はリスが木を登る小さな足音」
 ゆっくりと顔を上げると、口元に笑みを浮かべた店員が立っていた。
「いらっしゃいませ。今日はいつもより早いね」
 奏は微かに川辺の匂いが残る鼻をすすり、絵本を閉じて店員に歩み寄った。
「あのっ、店員さんって魔法使いですよね?」
 店員は「えっ?」と言い、大きな目をパチパチさせた。
「わたし、ここで絵本を読むと、その世界に入り込んじゃうんです。家で何回読んでも入れないのに。それって、ここの絵本にはそういう魔法がかかってるってことじゃないんですか? わたし、その魔法が使えるようになりたいんです」
 その魔法が使えれば、一人でも、きっとがんばれる。
 奏はこの言葉だけは飲み込んだ。
「お願いします、教えてください!」
「……残念だけど、私は、そんな魔法は使ってないよ」
 短い沈黙を破るように、店員が言った。
「でも、魔法と同じくらい楽しいことが起こる方法は知ってるから、それを教えてあげる」
「……それって?」
「好きなものを好きって言うんだ」
 店員は両手を広げて、梁が見える天井を仰ぎ見た。
「ここにいるお客さんは、絵本が好きって気持ちを素直に持ってる。だから、絵本の中に入るっていう素敵なことが起こったんだと思う。でもそれは、この店だけじゃなくて、外の世界でも同じこと。好きなものを好きって言えば、いつでもどこでも絵本の中に入れるし、同じものを好きな人が集まったり、好きなものの方から近づいて来たり、うれしいことが次々に起こるよ」
「……たったそれだけで?」
「私も絵本が好きって言い続けたら、大切な居場所ができて、世界中に友人ができて、絵本に囲まれる生活が送れてるんだもの」
「……好きなものを、好きって言う」
 店員は「そう!」と言い、奏の頭を優しくなでた。
 すると奏の心の中に、わくわくした気持ちを呼び覚ますような力がわいてきた。それは、あの強い風に似ていた。
「……やっぱり、魔法使いですよね?」
「ふふふ、どうだろうね?」

「――絵本部?」
 昼休みの職員室。
 テストの丸つけをしていた担任の咲良先生は首をかしげた。
「それを作りたいって、具体的には何をする部活なの?」
「絵本を読んだり、自分たちで書いたり、読み聞かせしたり、感じたりする部活です」
 手を動かしたまま、先生は「感じる?」とくりかえす。
「翻訳されていない絵本って、何が書いてあるか理解することはできないんですけど、その分、絵からお話を想像したり、感じたりできるんです。それを、たくさんの人と一緒にやりたくて」
 先生は手を止めずに、顔をしかめてうなった。
 諦めちゃだめだ!
 奏は自分に言い聞かせた。
「絵本が好きだから、やりたいんです!」
 丸を書きかけた手がピタッと止まり、奏と咲良先生の目が合う。
「……それなら、広報部に頼んでみたらいいんじゃないかな?」
「広報部?」
「月に一回、学校新聞を発行してる部だよ。四、五月は部活動特集を組んでるから、今行けばギリギリ五月号に掲載してもらえるんじゃないかな。『絵本好き大募集! みんなで絵本を楽しもう!』みたいな感じで」
「ちなみに、顧問ならわたしがやってあげる」と言い、先生は新しい丸を書いた。

 それから約三か月後。夏休みに入る前に、絵本部は五人の部員からスタートした。
 部員たちは全員、お小遣いのほとんどを絵本に使ってしまうような生粋の絵本好きたちだ。
 部長となった奏は、部活動の一環として、部員たちを「のりすごしてつどう」に連れて行こうと決めた。
 気合十分で乗り込んだにもかかわらず、新生活で疲れていた絵本部員たちは、たまたま座れた電車で寝てしまい、目的の駅を三つも通り過ぎてしまった。
「ごめんね、みんな。でも戻ればすぐだよ。それにね、あのお店に行くには、たぶん、一度は乗り過ごさなきゃいけないんだ」




 少し不思議な現代青春小説となっています。少し季節外れですが、最後の場面はちょうど今頃を想定しています。
 夏休みが始まった学校が多いようなので、ぜひ、読書のお供にしていただけたら嬉しいです。
 楽しく、穏やかな夏にしましょう。

 こちらの作品は、カクヨム、アルファポリスでも公開しています。

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