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私が大人に期待するのをやめた日

これを読んでくださっているあなたは”子供”なのか”大人”なのかは分からないが、あなたは大人に期待しているだろうか?

今の私はもう”大人”なので、期待できると思える素敵な大人もいると信じている。
(少なくとも自分はそういう大人でありたい)

しかし、幼少期の私はそうではなかった。
家族以外の大人、特に学校の先生に対してまったくと言っていいほど期待していなかった。
所詮、我々は生徒の一人であり、先生たちは一人の人間として扱ってはくれないと、諦めの気持ちを持ちながら学校生活を送っていた。

断っておくが、決して厨二病を拗らせているわけではない。


私が大人に期待するのをやめてしまった日、それは「幼稚園の芋掘り大会」の日だ。


【余談】この記事を執筆するにあたって、知人にも話を聞いてみたのだが、「芋掘り大会」というのは、どこの幼稚園・保育園でも、基本的に恒例行事らしい。
(少なくとも私の住んでいた周辺地域の幼稚園・保育園では)


そんな多くの人にとって馴染みのある芋掘り大会だが、大人になってから「芋を掘った」以外の記憶が残っている人は少数ではないだろうか。

しかしながら、私、現在アラサーの筆者の頭の中には、この芋掘り大会の記憶が今も鮮明に残っている。
なぜなら、このnoteの主題でもあるように、芋掘り大会を境に私は大人に期待することをやめたからである。




芋掘り大会でやるべきこととはなにか、そう、とにかく芋を掘ればいいのだ。
それぞれが思い思いに芋を掘り、掘り上げた芋を家に持ち帰る、これが芋掘り大会である。

私もそのルールに則って、とにかく芋を掘りに掘った。

時間が許す限りたくさん。

自分が持ち帰れるかどうか、自分の手に抱えられるかなどということは気にかけてもいなかった、とにかく掘って掘って掘りまくった。


芋掘りの工程が一通り終わり、おそらくお芋農家の方がなんやかんやしてくださり、園児たちは自分が掘った芋をレジ袋に入れて、家に持ち帰る準備を始めた。

皆、大体大きめのレジ袋1つ分、大人であれば片手で持てるほどの分量の芋を手にしていた。

そんな中、私が掘り起こしたお芋は、大きなレジ袋2つ分、大人でが両手で「よいしょっ」と持ち上げるほどの分量だった。


私はたくさんお芋が掘れてホクホクだった。芋だけに


しかし、そんなホクホク気分の私に担任の先生が放った一言は、園児の私からしたら想定外の言葉だった。
今でも鮮明に思い出せる。





「なんて欲張りなの!!!!!!!!!!!!!!」





両手にたんまりとさつまいもを掲げた私に担任の先生が怒り混じりにかけた言葉だ。

正直私は意味が分からなかった。

欲張り??この私が???なぜ????はにゃ?????


まぁまぁ、言われてみれば、周りを見渡す限り両手に1袋ずつお芋を持っているのは私だけだ。
他の園児たちは、1つのレジ袋にたんまり入ったお芋を両手で必死に抱えている。


私ってばちっからもち〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!

というお話ではなく

私は欲張りなのか??はて??


担任の先生は私が持つお芋を1袋奪い取り、上手に掘ることができず、手持ちが少ない園児らに配った。

最終的に、私の持つお芋は他の園児と同じくらいの量になった。
おおよそ、レジ袋1袋分。
つまり、当初私が持っていた分の半分ほど。




お芋をたくさん持ち帰ろうとした私がわがままな子供。
悪い子。

私を咎め、園児たちに平等に配ろうとした先生。
正義。

周りから見ても善悪の構図は明らかだっただろう。

欲張ってお芋をたくさん持ち帰ろうとして悪うござんした。

こうして芋掘り大会は私の中でモヤモヤした記憶として30年近く残り続けたのである。




ちょい待ち、私の言い分はここから。

私は、ただ怒られたから大人に期待するのをやめたわけではない。




なぜ、私は他の園児の倍の量のお芋を持ち帰ろうとしたのか。
この点について思考を巡らせてくださった方はいるだろうか。




ただの欲張りなんかじゃない。
自分がたくさん食べたかったわけでもない。




私は、大好きなお母さんのためにたくさんお芋を持ち帰ろうとしていた。




私の母は、よく焼き芋を食べる人だった。
それを知っていたから、サツマイモ=母の大好物、という認識が私の中にあった。
実際そうだったのだろう。

つまり、私が芋掘り大会で、できる限りたくさんお芋を持ち帰りたかったのは、私利私欲のためではなく、ただただ、母のためであった。

当時、私が考えていたことを正確に慮る事はできないが、おそらく、1袋私・1袋母ではなく、どちらも母にあげるために掘っていたと思う。
きっと私ならそうする。


あ、もちろんお父さんにもちゃんと分けますよ(笑)


大好きな母のために、頑張ってたくさん掘ったお芋を、有無を言わさず取り上げられたのだ。

私からすると、母への気持ちを踏みにじられたも同然だ。

しかも、他のクラスメートもいる中で咎められた。
せめて呼び出すべきだったのではないか。
幼いながらに叱り方に疑問を呈した覚えがある。


私からしたらムカつく話だが、きっと担任の先生は、空気を読む大切さを教えたかったのだろう。
要は、他の園児が1袋のお芋を持ち帰るのであれば、私もそれに倣うべきだと。

平等思想。
みんなで同じ分だけ持って帰る。
一人だけ欲張ってはいけない、と。


しかし、なぜ私が両手に抱えきれんばかりのお芋を持ち帰ろうとしたのか、その理由を先生から聞かれた覚えはない。
ただただ、叱られた。
私が欲張ってお芋をたくさん掘ったのだと決めつけられ、怒られた。


私はこの出来事を境に、自分の家族以外の大人は信用ならん、と心を閉ざした。
外の世界の大人は、私の話を聞いてはくれないものなのだと。


「母のために余分に1袋多くお芋を持ち帰る」

この行為を容認してほしいというわけではない。
先生が言っていることは間違っていない、それは当時の私も分かっていた。

集団生活を送る上で、一人だけ周りと違う行動を取ってはいけない、というのは理屈として当然だろう。

しかし、少なくとも私の言い分を聞いて欲しかった。
普段から問題児というわけでもない私が、なぜ周りに合わせなかったのか。

聞いてくれた上で、「みんな基本的には一人一袋という原則だから」というような理屈があれば、納得できただろう。

そういった前提もないままに
「他のみんなが一袋なのに、二袋も持ち帰るあなたはなんて欲張りなの!!!!」
と、大衆の前で辱められた事実を私は受け入れることができなかった。


だからこそ、20年以上経った今ですら、こんなにも鮮明に記憶が残っているのであろう。


先生がどういうつもりでそのような対応を取ったかは分からないが、おそらく園児に対するリスペクトが欠けていたのだろう。
「どうせ自分が欲しいからたくさん持って帰ろうとした」
そう決めつけ、理由など聞くまでもないと思ったのかもしれない。


自分の同級生らの中で幼稚園・保育園の先生を務めるものも出てきた今、そこまで細かくやってらんないということは昔よりは理解はできる。
だからと言っていまだに納得はできていない。




ちなみに、お芋を持ち帰った時の家族の反応もしっかりと覚えている。
「お芋いっぱい掘ったね〜!」
とニコニコしながら出迎えてくれた。

「マミお芋好きだから本当はもっといっぱい掘ったのに、先生に怒られて少なくなっちゃった」
と涙ながらに伝えると、そんな私を見て笑いながら
「優しい子だね〜」
と両親が褒めてくれた。


きっと当時の私は先生にもこの説明をしたかったのだろう。

その上で、
「そっかママのためだったんだね。でも他のみんなの分がなくなっちゃうから、みんなで分け分けしようね。みんなに分けたとしても、たくさんお芋持って帰れるからママきっと喜んでくれるよ」
そう言って欲しかったんだろうな。


心が狭い私なので、今でもこのことを思い返すとちょっぴりむしゃくしゃするわけなのですが、こうやって文字に起こすことで、少しだけ怒りを思い出に昇華できたような気もします。




子供と関わる機会がある大人の皆様、子供は子供なりにいろんなことを考えて、意外と意図を持って行動しているので、どうか決めつけずにきちんと話を聞いてあげてくださいな。

そして、私みたいなねちっこい記憶力を持っているめんどくさい子供もいるので、一つ一つの言動が一人の人間の今後の人生に関わるということをどうか忘れずに接してあげてくださいな。

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