【旅エッセイ】寒さを求める
夏が終わり、体の中がすっきりした気分になっている。
今年は、「夏は夏」「秋は秋」と季節がしっかり区切られていた。夏に体がむくみ、台風が近づき偏頭痛に襲われる。秋に抜けるとそこからようやく気分が良くなってくる。少し肌寒い季節が一番体の調子が良い。
そしてこのちょうどいい季節があっという間に過ぎれば、冬がやってくる。
清々しく痛い冬は、原風景に触れたような体験を思い起こさせる。死ぬほど寒い北国で育ったからなのか、この寒さを求めてしまう。
特に、「どこか違う場所」へ旅行するときはそうだ。
自ら寒さによる物悲しさやロマンチックさを求めているのは滑稽な気がしないでもないのだが。
(そして、北欧も西欧も、何度も訪れた季節が決まって2月ということにチケット代の安さ以外の理由もつけてやりたい。)
また、北国の夏は、すぐに終りを予感させる、あくまでメインは冬ですよ、ということ物語るような眩さがあるように感じる。
ひとりで旅をする醍醐味はこんなことをつらつらと考える時間だけでなく、考えない・体感にながされる時間でもあるということをふと思い出した深夜の1時前。
見直すことのなかった、エストニアにあったカフェでの一枚。あの日私はひとりで恐る恐る入店したカフェでお茶を啜り、食器の美しい銀色と模様を目でなぞっていた。
周りの人々に変に思われないか内心ビクビクしながらこの模様を少し撫でた。
盛りつけられたケーキがやってきて、テーブルの上はこれを引き立てるための板だったということを証明するかのようだった。
なんて美しい!
という感動と裏腹に、ミルフィーユ状のケーキはゴテゴテに甘く、ケーキはコーティングに守られ固い。
評価は「商店街にある田舎ケーキ」へと変わる。
それでも見た目は完璧で、崩れる様もいつまでも絵になった。甘さを紅茶でごまかし流し込み、余韻にひたる。
店内の暖かさに慣れるとつま先に感覚が戻ってきて、靴下が濡れていることを思い出させる。じんじんする感触は、深夜、雪が降る中で初詣に参拝するのと同じ。
東京の冷たさが風によるビュビュウ耳元を鳴らすものなら、雪国の冷たさは雪が音を吸収して静まり返るものだ。
寒い国に来ると、体は冷え切っているのに心は落ち着く。
違う国にいて、日本語の情報がない中でデジャビュを感じることが、どこか違う場所にいたときの面白さだった。自分の感覚が研ぎ澄まされるようで。
今年はずっと関東から出ていない。
意外と、新たなどこかを見つけられるだろうか。