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なぜ「亡き◯◯が喜んでくれているでしょう」と言えるのか。

ご法事で聞く、「亡き◯◯が喜んでくれていると思います」という喪主さんのご挨拶。私はいつもにっこり聞きながらも内心は「なぜそんな事がわかるだろう」と、不思議でした。ある時、ようやく長年の謎が解けるご縁にお遇いしました。

 あるママさんが一歳になる赤ちゃんを連れてお寺にお参りにきてくれました。私が「合掌ください」と言うと、ママさんは落ち着かない赤ちゃんをご本尊にくるっと向かわせて後ろからその子の両手を包み込んで「なもなもよ〜」「よくできたねえ」と一緒に手を合わせておられました。

 その光景にああいう風にして手を合わす身にお育ていただくのだなぁと嬉しく思い妻に伝えました。すると妻が、「どうしてそのママさんはお参りにこられたの?」と聞くので、昨年ご往生されたお祖母さまのご縁であることを伝えると、「じゃあそのママさんに手を合わさせたのはそのおばあちゃんってことか。」と言ったのです。ハッとしました。そうなのです。あの赤ちゃんのひとつの合掌にはママさんだけでなく先に仏になられたお方の願いも重なってあったのです。

「南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり」(浄土和讃)

それはおばあちゃんだけではありません。さらに無量の諸仏があの赤ちゃんを幾重にも取り囲んでようやくなされた合掌とお念仏だったのです。やっと阿弥陀仏の願いが届いたということです。そりゃ諸仏は喜ぶはずです。おばあちゃんも「よくできたねぇ」と大喜びでしょう。

そんな尊いご縁にお遇いして以来、先の喪主さまのご挨拶を本心からにっこりとまたありがたく聞けるようになりました。そしてそれはなによりも、私が申すひと声ひと声のお念仏にお聞かせいただいています。

南無阿弥陀仏

(浄土真宗本願寺派東海教区寺族女性連盟会報「花」2024年9月号より)

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