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カンボジアへ井戸建設に行った時の話(写真あり)

(浄土真宗本願寺派東海教区会報 こころばなしより)

『一滴の水から』

仏説阿弥陀経というお経に「八功徳水」と言葉があります。

功徳とは素晴らしい性質の事で、一つは潤いがある。二つ、臭みがない。三つ軽やか。四つ冷ややか。五つ軟らか。六つ美味しく。七つ渇きを癒す。八つ安心して飲める水だと解説されています。

要するに水道水と変わらないただの水の事です。そのただの水に仏さまは素晴らしい功徳があると説かれます。つまり一滴の水に尊い価値をご覧になるという事です。そのお心を「八功徳水」と言います。

一方、私自身は同じ一滴の水を見ても価値を感じどころか洗面の時には水を出しっぱなしにする事もありますし、それを見て心配するのは今月の水道代ぐらいです。

しかしながら、ある出来事をきっかけに私がもつ水の価値観が一変しました。

 先輩のお坊さんグループが約10年前から毎年カンボジアを訪れて現地の僧侶と仏教交流や日本語学校などを訪問し支援活動を行っています。

縁あって去年初めてお供させて頂くことになりました。

支援活動のひとつにとある村に井戸を建設するという活動があります。その村は親交のあるカンボジア僧侶の故郷で、水道や電気も通っていなければトイレもないところです。

その話を本人から聞き衝撃を受けて井戸建設計画が始まりました。カンボジア滞在中にその村へ立ち寄り建設したいくつかの井戸を拝見しました。

ポンプ式の井戸でした。私は今まで井戸というものに触れた経験がなかったので驚きと新鮮さで心踊りながら井戸の取っ手を手にして上下に動しました。

次第に水が溢れ出てきました。すると後ろの方から現地の青年が声を上げて私に駆け寄って来ました。

様子がおかしいので通訳をしてもらうと

「水を無駄使いしないでくれ」

という旨を訴えていたそうで、青年は汗を流しながら私がこぼした水を丁寧にバケツですくい目の前にある畑に一滴残さず蒔いていました。

私は恥ずかしさと申し訳なさで一杯になりました。

その瞬間に私は「八功徳水」の言葉を思い出しました。

仏さまはまさにこの青年のように一滴の水に尊い価値をご覧になっているのです。一方、同じ水でも私にはやはりただの水にしか見えません。

その私を見て声を上げて駆け寄らずにはいられないのです。

そのお心が言葉になったのが「八功徳水」でした。

そして仏教はいのちを問題とします。

水で言えば、一滴一滴のいのちをかけがえのない価値あるいのちであるとご覧になって、私に向かって声上げ駆け寄ります。

浄土真宗ではそのようなお方を南無阿弥陀仏の仏さまと呼びます。

一滴の水から私のいのちの有り様を知らされました。

「八功徳水」を見る度にありがたくてお恥ずかしい出来事を思い出します。


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