冷たい言葉の話

2024月1月1日に能登半島地震が起きて、未だに酷い状態が続いているという。

更に豪雨被害と恐ろしいことも起こっている。

自分も映像なんか見ると涙が出てくるくらいだが、同時にものすごい怒りも感じる。

話題に上がるということはそれだけ気にしている人達もいるのだろう。しかしネットを眺めていると中には復興は無駄だとかそんな地域切り捨てろという感じの冷たい反応も見かける。

自分なりに色々考えてみるとこういうトンデモ意見が出てくる理由というのが少し分かる気がしなくもない。


先日、岸由二氏の「流域思考」というものを知ったので動画を見たり本を読んだりしていた。

昨今は水害のニュース等もとても多いが、治水についての話などとてもタメになるのでオススメしておく。

6:25~くらいに「Sense of place」「Sense of habitat」の話が出てくるが、個人的にこれは核心をついたテーマだとよく思うし、田舎などでは移住政策などをやっているがとても大事なことだと考えている。


地元」という言葉がある。何を意味するかはその時々により違うのだろうが、広義には自分自身が産まれ育った土地とでも言おうか。もう少し深く見てみると、そういう場所は思い入れがある場所、自分と繋がりがある場所、帰ることができる場所という意味合いが入っているように思う。

そう考えると自分には地元が無い。家庭環境的にそうだったという面が大きな理由なのだが、父母の家というのが存在しないので明確に帰る場所というものは無い。一応祖父母の家はあるがそこはもう叔父が住んでいるので自分の家ではない。山口県のとある児童養護施設にいた期間はそれなりに長いが、ではそこが地元かというと違うし、帰れはしない。
そんな自分ではあるが一応祖父母の家のある地域には多少思い入れはある。それは多分先祖の暮らした土地であるしそう考えるとそれなりの繋がりがある。ただごちゃごちゃ言えるほどには知らないし地元住民からすれば他所の人間である。そういうことを考えると自分はすごくフワフワした存在なのだなとも思う。


東京一極集中の問題というのはよく言われているが、現代では大多数の人間が都市部で暮らしている。別に関東の都市圏じゃなくても地方都市に人口が集中している。となると比較的若い頃からそういう地域で暮らし出す人は多いだろうし、産まれてからずっとそこにいるという人も多いのだろう。

都市部というのは不思議な場所である。基本的に極めて人工的な社会と物質で作られた場所なのでその土地で暮らす意味みたいなものは特に存在しない。やたら暑いなとは思う。そういう極端な人工的社会の中で暮らしていると個人的には正直居心地の悪さや気持ち悪さのようなものもよく感じる。

つまり自分はその場所に愛着のような感覚を持っていない。それは当然で、養老孟司氏などがよく言っている、人間の頭の中で作った世界だからだろう。世間で「社会」というものの話があるとすぐ出てくるのは経済がどうとか、数字とかデータで見た現在の社会構造が上手く回るかの話である。本質的に人間がその土地と付き合ってどう暮らしていくかとかそういう話ではない。

なのでいつまで経っても問題は解決しない。というか解決しようとしていない。これは人間や環境にとって良くないからすぐ止めましょうとはならない。社会が上手く回らないから今更止められない。土台がぐらついているのに世界一高い塔でも建てられないかと考えてやしないだろうか。

べつにそういう社会が好きな人はそれでいいのだろうし、その人がどう暮らしていこうが好きにすればよいのだろう。


話を戻すと、なぜ冷たい言葉が出てくるかというと、根本的には地域に対する繋がりや愛着という感覚。暮らしがどうやって成り立っているかという想像力自体がだんだん欠けていっているのではないかと思う。

毎度言っているが、都市というものは人や物資を周囲から吸い上げて成り立っている場所である。なのでそれが途切れればあっという間に機能不全に陥る。災害などで物流が乱れた時にはお店に行っても棚がすっからかんというのも珍しい話ではない。

結局何が起こっているのかと考えると、「末端の地域?そんなところは自分とは関係ないので切り捨ててよい。」という感覚なのではないかと思う。そう思い込んでいるのは自分であって、べつに世界に中心とか末端があるわけではない。そんなものは頭の中で勝手に作った妄想でしかない。

仮に人々がそういう考え方をしているとするならば、何かあった時に助け合いが起きるかどうかも怪しいと感じる。「その人は自分と関係ないし切り捨てていいよ」と。実際既にそうなっているのだろうとも感じる。

自分という存在は世界の中心ではないし、色んな物と繋がってなんとか生かされている、という感覚は大切である。

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