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脚立こわい

5月末、職場にて毎年恒例の大掃除があった。
入りたてでどれがゴミかもわからない僕は、先輩の指示に従う兵隊としてその場に駆り出された。

仕事で使う器具の清掃、荷物の移動、床の拭き掃除。
「がんばってもらうからよろしく」と言われていた通り、絶え間なくタスクがやってくる。
そんな中でも、とりわけ男手を必要とする作業が大掃除には存在する。
高所のホコリ取りである。
積もりに積もった1年の汚れが棚や電灯の上に存在し、往々にして消去法的に選ばれたタッパがあり体力のある若い男にそれの処理が任命される。
若いかはともかく上記の基準をおおよそ満たした僕にもその役目がやってきた。

職場の電灯は、平均以上の成人男性が手を伸ばしても届かない場所に位置しており、大掃除において高さを確保するための器具が使用されていた。

恐怖の根源

「こうやるんだ」と恰幅が良いにも関わらず先輩は軽々とそれに登り電灯のホコリを払った。
乗って、払って、降りるだけ。
見てる分には簡単で、電灯の数が少し多いだけの楽な作業。
脚立をセットし、少し使い古されたバケツと雑巾を手に電灯の下に立つ。
さっき見たことと同じことをやろうと、一段目に足を置いた。

こわ……



急に胃の中をグチャグチャにされたような不安が襲いかかってきた。
生来のバランス感覚がカスなのか、重心がズレているのか。
支えになるものなんて、頼れるものなんて何もない。
自分の脚力とバランスのみで体を支え、落下しないように姿勢を制御する難しさ。
脚立なんて自分と同じぐらいの高さでしかないと頭では分かっていても、身体は高所に対する猛烈な恐怖を敏感に感じ取っていた。

その刹那、恐怖とともにやってきた冷静な思考は、78kgの成人男性が約1.5mの高さから落ちた場合を想定し、重力加速度や空気抵抗あらゆる変数を考慮し演算、正確な結果を叩き出す。
ヤバイ、死。
頭部強打によるただ事ではない事態。
仮に病院に担ぎ込まれ一命を取り留めたとしよう、だが「タッパと体力のある男」というブランドに「掃除中脚立から落ちたどんくさ」というスティグマが付いてしまう。
事あるごとにいじられ、引き合いに出され、子々孫々に語り継がれていく不名誉。
もし落下したらこの先、誇りある生き方ができるだろうか?
恐る恐る手を使ってまで、その頼りない心と身体を支え脚立から降りた。

国民生活センターによると、転落事故は中々の割合で起きており、主な症状別では骨折が4割。頭蓋内損傷や内臓損傷、脊髄損傷などもみられるとのこと。
あまつさえ死亡事故まで起きているという事態。

高所からの落下の脅威というのは現実世界の枠だけには収まらず、ゲーム内においても、高い被ダメージの原因やゲームオーバーの要素として存在している。

落下死の代名詞


ちょっとの高さで死ぬところ以外最高にかっこいいおじさん

ちょっと前までは彼らのことを笑っていた自分がいた。
そんな高さで死ぬのおかしいやろと。
そんなことはない。
高所から落ちる、というのは笑い事では済まされない大きな事態を引き起こす要因なのだ。
この時ようやく肌で理解した、高所に対する認識の甘さを、自分の愚かさを、そして何より勇気の無さを。

怖くて仕方ない。
でも「怖いんでやめます」なんて口にできるはずもない。
全然なんでもやります!みたいな顔で出勤してきたんだこっちは。
ちっぽけな男の最後のプライドが、目の前の四足獣に立ち向かう勇気をくれる。

誇張されたイメージ


野生動物時代の名残である交感神経が優位になり、所謂「戦うか逃げるか反応」を引き起こす。
震える手足、高鳴る心拍。
やけに温かい気温のせいか、強敵を目の前にした緊張のせいか、滝のような汗が体中から溢れ出す。

先程までは片側にだけ足を置いたのだが、バランスを取るならばなるほど、両側に跨ぐように足を置けばよいではないか。
少し考えればわかることだった、交感神経が優位になり前頭葉に向かう血流量が減少した結果、こんな単純な策にも思い至らなかった。
両側から脚立を挟み込むようにして、一体になるようにして自身を支える。
相も変わらぬ上半身は頼りを求めてフラフラだが、どうにか下半身は安定できている。
脚で立つと書いて正に脚立といったところか。
まるで信頼のおける自分の脚になったような。
さらなる高さを得て巨人にでもなったような。
恐怖によって逃げ出せば見ることのできなかった、普段は届かない高さでの景色。
戦いを決意し、考えを巡らせることでようやく乗りこなしたこの獣。
恐怖の対象でしかなかったこのデカい鉄の脚は、いつの間にか頼れる相棒になっていた。
古来より人間は、そのデカすぎる脳みそと器用な手を使い、自分に足りない能力を道具を製作することによって拡張し、絶えることのない好奇心とリスクを許容する勇気によって飛行機まで作り上げ、人類の生存領域を広げてきた。
それに倣うように、先人の知恵とほんの少しの勇気によって、普段は届かぬ高さを手に入れた僕は、それでもやってくる恐怖と戦いながら電灯のホコリを払っていった。

1年前の輝きを取り戻した電灯を下から見上げ、乗り越えた山のデカさを改めて確認する。
なんとかやりきった。
でもまだ掃除は終わらない、床を拭いて、ワックスかけて、動かした物を元の位置に戻す。
期待された男の力が発揮されるのはこれからだ。
高所のホコリを払い、誇りを守りきった男の掃除は夕方まで続く。
力を貸してくれた相棒に別れを告げるように、脚立を定位置へと戻した。
よく見ると注意書きが貼られている。
「ウラ側から登るな!」
そんなことできるわけないだろ、どうやんの?


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