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映画『ファイト・クラブ』が超絶最強のメチャクソ最高傑作だったっていう話

これだ、これ。僕が映画、いやエンタメに求めていたものの内、極上の一つを獲得した。それが『ファイト・クラブ』だ。1999年の作品だが、今全人類が刮目し改めて目撃しなければいけない一本だ。

子供の頃初めて買ったCDで、布袋寅泰は痛みこそ生きている実感になり得ると歌っていた。その意味を改めて実感した。エドワード・ノートンにブラッド・ピットが火傷を負わせたシーンでは鳥肌が止まらなかった。痛みを感じろ、逃げるな、目を背けるな、痛みを感じろ。文字通り、こんな痛切なメッセージが他にあっただろうか。物に縛られないために自分の家を爆破し廃墟に住み着くその清々しさ。流れに身を任せること。でも決して人は殺さない。何故なら我々は生きていくために痛みを感じ、そのリアルな痛みを糧として、誇りとして生きていくからだ。殺し殺されの世界とはレイヤーが違うのだ。そしてくだらない資本主義の下僕と化した平和ボケのバカ共に一泡も二泡も吹かせてやるのだ。嗚呼、噫、またしても文字通り、なんと痛快なことだろう。

僕が手に入れたかったのはこんな人生だった。それなりに勉強はした。頭は悪くなかった。立派なビジネスパーソンになろうと意識を高く持っていたこともあった。しかしコロナ騒動で僕は目覚めた。今ははっきりと自覚している。人間が仕事で生きがいを得るのは『できること』『やりたいこと』『ニーズがあること』が幸運にも一致した場合だけだ。99.99%の人は「やりがい」なんていうバカげた言葉で自分を騙してなんとなく生きているだけだ。自分は社会に必要とされているのだと一所懸命に自認したいのだ。働く中で喜びなんていくらでも見つけられる。ただ単に「見つけている」時点であなたは選ばれし人間ではない。凡庸も凡庸、凡人ここに極まれり、下賤な一市民、一納税者だ。堀江貴文さんの著書に「99%の会社はいらない」があるが正に正鵠を得たり。世の中の仕事なんてほとんどが本当は要らない。金儲けのために勝手にニーズを作り出そうと躍起になっているだけで、その装置の1パーツに「やりがい」もクソもあるものか。いいかげん目を覚ませ。お前のそのアホ丸出しできったねえニヤケヅラから喚き散らされる達成感とやらも誰か馬鹿でかい資本を持っている0.01%の存在に賜ったものだと気付け。

血を流せ、さもなくば権利など持たない歯車であることを自覚しろ。お前らが幸せになるための生き方はその二択だ。じゃなきゃ一生不幸でいろ、耐えかねたら自決でもしろ。世界に選ばれなかった時点で幸せに生きる道は先の2つだ。『ファイト・クラブ』をちゃんと観ればわかる。血を流した経験があるやつは嗅覚で同胞を検知して理解して尊敬し合える。たとえその身体に傷跡がなかろうとも、目と全身の挙動で解り合える。映画の中だけじゃない。現実もそういうものだ。それは僕がそうだからわかる。震えるな。でなきゃ一生そこでうずくまるか傷の舐め合いをしていろ。

闘え。そして闘いの中に悦びを見い出せ。真っ白なTシャツを着て泥に飛び込むのは少し躊躇いがあるだろう。ただそのシャツが泥で真っ黒に染まったとき、どうだ。お前はきっと満面の笑みを浮かべているに違いない。お前が子供だったとき、虫を捕まえてまじまじと観察し、その脚を一本ずつ毟ってただの塊と化したそれを地面に放ってそれが転げ回るしかできなくなったときの快感を思い出せ。その塊を端から徐々に磨り潰していってだんだん動かなくなったときの全能感を思い出せ。アスファルトに滲んだ何かの液体となったそれに君は感謝しただろう。大人になっては得難い体験だ。今度の相手は人間だ。そう簡単にはいかないぞ。だから全力で闘うんだ。繰り返す、でなきゃ一生そこでうずくまるか傷の舐め合いをしていろ。

まあいいや。御託はいいから『ファイト・クラブ』を観ようぜ。

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