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数千年ぶりの狩猟時代に稲作型農耕民はどう立ち向かうか

民族性が生まれる理由

現生人類であるホモ・サピエンスは約20万年前にアフリカ南部で誕生し、その後世界中に散らばっていきました。

そして世界各地に根付き、そこから独自の文明を築いていくことになります。

ところで普段、私たちがその地域の風習や社会の慣習を説明するときに、国民性や民族性をその理由として挙げたりすることがあります。

たとえば日本人は農耕民族だから集団で協力し合うのが得意なんだ、といった具合です。

しかし共通の祖先を持つ人類が、その土地土地で独自の性質を身に着けるということはあり得るのでしょうか。

生物の性質変化とはすなわち進化を意味しますが、『種の起源』で有名なチャールズ・ダーウィンは独自の進化論、環境に適した変異を有した個体(遺伝子)が生存、拡散するという適者生存の原理、自然選択説を唱えました。

現代でもこの自然選択説は有力視されており、たとえば世を騒がせている新型コロナウイルス(厳密には生物とは言えませんが)のことを考えてみると、コロナウイルスはおよそ2週間に1回のペースで自然変異を起こすことが知られていますが(※1)、急速な感染拡大を起こすのはたまたま感染力が高まるような変異を起こした変異株だけです。

つまり環境に適した変異を起こしたウイルス(の遺伝子)が自然選択的に拡散していくのです。

では同じようなことが人間にも起こり得るのか。

その例としてよく挙げられるのがユダヤ人です。

ユダヤ人は大別してアラブ系、ヨーロッパ系、オリエント系の3グループに分けられますが、ヨーロッパ系のうち、主にロシアや東欧を起源とするアシュケナージは民族的にIQが高いことで知られています。

この特徴はほかのアラブ系やオリエント系、同じヨーロッパ系のセファルディムでもみられません。

ユダヤ人の中でもアシュケナージだけが持つ特徴をもたらした環境変化とはどのようなものだったのか。

それはナチスドイツのホロコーストに代表されるような迫害の歴史です。

 キリスト教世界の差別によって金融(金貸し)以外に生きていく術がなくなったユダヤ人は、数学的知能(計算能力)に秀でていた方が有利なのだから、平均的なヨーロッパ系白人よりほんのすこし知能が高かっただろう。だがこれだけでは、短期間に知能が急激に高まる理由にはならない。ところがこれに虐殺と追放という極端な淘汰圧を加えると、集団内の遺伝分布の大きな偏りを説明できる。

 DNA分析では、今日のアシュケナージ系ユダヤ人は中東の遺伝子をいまだに50%ちかく保有している。これは過去2000年間における混血率が1世代あたり1%未満であったことを示しており、ここまで同族婚が極端だと、有利な遺伝的変異は散逸することなく集団内に蓄積される。
『もっと言ってはいけない』 / 橘玲 著


壮絶な歴史の中で、過酷な環境に適応できる(変異)遺伝子を偶然持っていた個体だけが生き延び、それが今日の民族性につながっているのです。

そしてこのような性質の変化は比較的短期間のうちに起こり得ることが研究で示唆されています。

キツネはなかなか人にはなつかず、手を出すと飛びかかり威嚇をする。しかし、この研究所の飼育場には、様子の違うキツネがいた。人にはなつかないはずのキツネが、まるで犬のように尻尾をふって喜んでいるのだ。檻から出して抱きかかえてもまったく平気である。

このペットのようなキツネは、1958年から現在まで継続している繁殖作業から産まれた。まず、キツネが赤ちゃんを産むと、その中から比較的穏やかなキツネを選別。そのキツネが成長して子どもを産むと、再び穏やかなキツネを選び出した。こうして、穏やかなキツネを選んでは育て続けたのである。

変化が現れたのは、実験開始からおよそ6年。6世代目のことだ。キツネは人を怖がらないどころか、甘える仕草を見せるようになった。研究者がキツネの血液を調べたところ、攻撃性を生み出すコルチゾールというホルモンに変化が現れていた。普通のキツネに比べると、穏やかなキツネのコルチゾールの値はおよそ半分。これが人になつく理由だと考えられている。

実験のキツネが16世代目になると、見た目まで犬のようになり、耳が垂れさがるものや、尻尾が巻き上がるものまで現れたのである。現在のキツネは56世代目で、人の指示を理解し、研究者の指示で「ふせ」や「お座り」をしてコミュニケーションがとれるようになったのだ。
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190109/index.html
文化によって社会環境が変わると、それに適応した遺伝子が選択され、その効果はポリジェニックに増幅される。数千年どころか数百年あれば、これだけで他の集団とは異なる遺伝的傾向をもつグループが生まれる可能性がある。
『もっと言ってはいけない』 / 橘玲 著

かつてヒトと敵対的な関係にあったオオカミが、人間と共存する形で適応的に進化しイヌになったように、人類もその地域の環境や文化に応じて適応的に変化(進化)し、民族性というものが生まれたとしても不思議ではありません。

東アジア人は稲作型農耕民として進化した?

以前に日本人は不安(高感受性)遺伝子として知られるセロトニントランスポーターS型遺伝子の保有率が世界でもっとも高いということに触れました(※2)。


そしてその理由として歴史的に災害が多いという厳しい生存環境に適応する形で進化してきたのではないかということを書きました。

しかし中国や韓国、台湾でも高率にこの遺伝子がみられることから、東アジア人の共通の祖先が存在していた時代にその起源(転換点)があったと考える方がより自然かもしれません。

このセロトニントランスポーター遺伝子のもともとのオリジナルはL型で、L型遺伝子が変異を起こす形でS型が誕生したと考えられていますが、それは人類共通の祖先であるアフリカ人のS型遺伝子保有率が低いこととも整合的です。

ではこの変異型の遺伝子が東アジア地域において主流となる背景には何があったのか。

その有力な仮説として考えられるのが稲作文化です。

欧米人と日本人の民族性の違いについて狩猟民族と農耕民族の違いだと説明されることがありますが、それに対するよくある反論はヨーロッパでも紀元前数千年も前から農耕文化が大陸を支配していたのだから、欧米人も紛れもなく農耕民だというものです。

ただし同じ農耕文化であっても、地域によって何を栽培していたかが異なっていました。

ヨーロッパでは主に小麦作が行われていたのに対し、日本を含む東アジアでは稲作による米文化が根付いたのです。

そのことが民族性とどう関係してくるのか。

小麦にはない稲の優れた特徴の一つに、その生産性の高さがあります。

 同じ作物を毎年植えると、土地が痩せて生育が悪くなる。これが連作障害で、小麦栽培ではずっとこの難題を解決できなかった。農家は、小麦を収穫したら翌年は羊などを放牧し、その翌年は休耕することで地力を保つしかなかった。――灌漑や機械化、品種改良、化学肥料などの「緑の革命」で小麦の単収が大きく上がったのは1960年代になってからだ。
 それに対して水田は、水といっしょに土壌に溜まった毒素を洗い流すから連作障害とは無縁だ。日本でも暖かい地方で二毛作(※3)が行われてきたが、亜熱帯の中国南部や東南アジアでは三毛作も可能だ。
『もっと言ってはいけない』 / 橘玲 著
 同じ面積の土地があったとして、そこで小麦を栽培すると3年に1回しか収穫できない。ところが水田で米をつくれば毎年収穫できる。水耕栽培というのは農業におけるとてつもないイノベーションで、養育可能な人口を一挙に増やした。
 アジアの人口が多いのは、稲作によってたくさんの子どもを育てることができる、ゆたかな社会だったからだ。だがそれは同時に、狭い地域に多くのひとが暮らす社会でもあった。これほどまで人口密度の高いムラ社会は、狩猟採集社会や遊牧社会はもちろん、小麦作のヨーロッパにも存在しない。

すなわち稲作という画期的なイノベーションにより食糧の大量生産が可能となり、東アジアでの人口爆発(過密)が起こったのです。

ただしその生産革命は、思わぬ弊害をも生み出しました。

狩猟採集生活では獲物はその場で食べるか、仲間と平等に分けるしかなかったが、貯蔵できる穀物は「所有」の概念を生み出し、自分の財産を管理するための数学的能力や、紛争を解決するための言語的能力が重視されるようになった。

農耕革命により食糧の備蓄が可能になった一方で、有り余る富の偏在が生じ、それが共同体内での序列につながっていった。

狩猟採集社会では有用だった勇敢さや獰猛さといった気質が人口稠密な集住社会(ムラ社会)では嫌われるようになった。牧畜業では気性の荒い牛は仲間を傷つけるので真っ先に排除される。それと同時に、農耕によってはじめて登場した共同体の支配者(権力者)は自分に歯向かう攻撃的な人間を容赦なく処分しただろうし、村人たちも攻撃的な人間をムラの平和を乱す迷惑者として村八分にして追い出しただろう。

つまり東アジアを中心とする地域では、稲作文化により人口爆発と序列関係が生まれ、過密な集住社会(ムラ社会)では人間関係の機微に敏感で集団志向の強い従順な個体が選好され、自らの意志でムラの権力者(封建領主)に歯向かったりする自律的な個体は排除されていったと考えられます。

共同体内の人間関係(権力構造)を読み解き、権力者の顔色をうかがい忖度することこそが古くから続く村人の最も有効な生存戦略であり、それは政治の世界で論功行賞人事が横行し、民間企業でイエスマンが重用される現代においても全く変わっていないと言えるでしょう。

また過密な集住社会という生活環境は狩猟採集時代の女性たちの在り方とも共通しており、このことがアジア人は女性的とも言われる由縁かもしれません。

橘氏の言葉を借りれば、このような文化と遺伝の共進化のメカニズム、自己家畜化により、東アジア人は稲作型の農耕民として進化したのではないでしょうか。

数千年ぶりの狩猟時代に稲作型農耕民はどう立ち向かうか

紀元前から数千年の長きにわたり続いた農耕社会も、近代の生産革命によって終わりを告げました。

生産性が飛躍的に向上し、ありとあらゆるモノやサービスが溢れる現代社会では、富の象徴も穀物から貨幣(あるいは電子データ)へと置き換わっています。

そして今日では資本主義経済の名の下に、経済的な豊かさをめぐって飽くなき市場競争が繰り広げられています。

業績不振の企業を買収し、再生することで莫大な利益を得る外資系ヘッジファンドのことを、目ざとく獲物を見つけて食い尽くすハゲワシやコンドルになぞらえてハゲタカと呼んだりしますが、ある意味で今日の資本主義社会は数千年ぶりに到来した狩猟社会と捉えることもできるかもしれません。

アメリカ、カナダ、イスラエル、オーストラリア……

人口あたりの起業数で上位を占めるこれらの国々にはある共通した特徴があります。

それは移民による移民国家だということです。

18~19世紀にかけて当地に入植した移民達の、リスクを恐れずチャレンジするフロンティア精神が脈々と受け継がれ、今日の起業家精神につながっているのです。

また世界中の才能を受け入れる懐の深さもその大きな要因と考えられます。

彼らはある意味で生まれながらのハンター、狩猟民族と言えるかもしれません。

対して稲作型農耕民族である東アジア人は、相対的に高いIQを持つ一方で、知的好奇心や創造的思考力などの指標とされるビッグファイブの開放性が低く、ノーベル賞受賞者が少ないことが知られています。

アジア人はこのOpennessが低い。このことはすでにLynn(2007a)が、アジア人にノーベル賞が少ない理由として説明している。世界各国でのパーソナリティ調査を報告しているSchmitt et al.(2007)によると、ヨーロッパ人によって構成される 35カ国の平均値は 50.1であるのに対して、アジア6カ国、地域の平均は 44.15である。この 0.6標準偏差の違いによって、アジア人はヨーロッパ人よりも高いIQを持つにもかかわらず、はるかに学術的な貢献をしてこなかったというのである。
http://www.shotoku.ac.jp/facilities/library/publication/education-keizai15-3.pdf
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/02/20-12.php


人口過密の序列社会では、自分の考えを主張したり変に理屈をこねたりする個体は疎んじられ、排斥されてきたのでしょう。

特に厳格な身分制度である封建制の江戸時代が19世紀終わり頃まで続いた日本においては、武士に「切捨御免(きりすてごめん)」という気に入らない農民を切り殺す特権が認められていたり、反乱(一揆)を起こしたり(年貢の減免を求めて)幕府に直訴するような義民(英雄)が軒並み死罪にされてきたことなどから、より一層そのような淘汰圧が強かったと言えるかもしれません。

廃藩置県に際し、「当時吾々同友は三五相会すれば則ち相祝し、新政府のこの盛事を見たる以上は死するも憾みなしと絶叫したるものなり」(『福翁百余話』)というほど、封建制の廃除に歓喜した福沢は、それ以後の日本が封建時代と少しもかわらぬ専制主義と、民衆の側のいぜんたる奴隷根性とによって成り立っていることを痛歎しなければならなかったわけである。
https://book.asahi.com/jinbun/article/13792866

一方でそのような歴史的背景は、細かいところに気が付く繊細さや、世界の中でも相対的に高いIQという特徴ももたらしました。

 アメリカの大学で白人学生が外向的なのに対し、日本からの留学生が内向的で授業中もほとんど発言しないことが、日米の文化のちがいとしてしばしば指摘される。だがこれは、日本人にかぎったことではない。「内向性」は、中国系や韓国系など東アジア系の学生にも共通する特徴だ。
『もっと言ってはいけない』 / 橘玲 著
 2018年8月、アメリカ司法省はハーバード大学の入学選考でアジア系の学生が不当に排除されているとの意見書を提出した。
 ハーバード大が2013年に行った学内調査では、学業成績だけならアジア系の割合は全入学者の43%になるが、他の評価を加えたことで19%まで下がった。また2009年の調査では、アジア系の学生がハーバードのような名門校に合格するには、2400点満点のSATで白人より140点、ヒスパニックより270点、黒人より450点高い点数を取る必要があるとされる。
 東アジア系は知能が高いが不安感が強く、目先の利益よりも将来のことを心配する。「知能」と「意志力(先延ばしのちから)」のこの組み合わせによって、アメリカ社会では短期間で目を見張るような経済的成功を手にするようになった。医師や弁護士など専門職として成功できるのは、たんに知能が高いからだけではなく、「低コンテクスト」が当たり前の社会で、患者や顧客の微妙な表情を読んで的確な応答ができる「高コンテクスト」な能力が優位性をもつからだろう。

このような特徴は日本の文化で言えば、細やかな気遣いが行き届いた「おもてなし」、精巧なものづくりへのこだわり、小説や漫画、アニメ、ゲームなどのサブカルチャーにおける独特の感性、行間を読ませるような繊細な描写などにつながっていると考えられます。

グローバル社会とは国境を超えた究極の分業制であり、ある意味で究極の競争社会とも言えます。

そのような激しい競争社会の中で優位性を見出し、適者生存の道を行くためには、まず自分のルーツやアイデンティティというものを見つめなおすところから始まるのかもしれません。


※1:

※2:

※3:原文ママですが、正確には二期作、三期作と考えられます。

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