樋口季一郎 ユダヤ人や軍人、日本までも救った男
今回は陸軍中将、樋口季一郎について解説する。
1.概要
1888年、淡路島で生まれる。
1909年、陸軍士官学校(21期)を卒業する。
ウラジオストクなどを経て関東軍に配属される。
1937年に上海租界を目指して逃げてきたユダヤ人が満州国境付近まで来ていたところ保護し、満州国通過を容認した。
太平洋戦争に突入すると、北部軍司令官に就任しアッツ島・キスカ島を攻略する。その後、樺太守備に移りそのまま終戦を迎える。
終戦後、千島列島に攻めてきたソ連軍と戦い、1ヶ月弱食い止めた。
1970年、死去。
2.オトポール事件
樋口を語る上で欠かせない話だが、これは以外と知られていない。
有名な人物がもう一人いるからだ。それは杉原千畝、彼もリトアニア総領事だった時に、ユダヤ人にビザを発行し、日本国の通過を容認した。彼の行動によって5000人以上が救われた。対して樋口は2万人(諸説あり)、数が全てというわけではないが、樋口が教科書に載らないのはおかしいと思う。
3.アッツ島・キスカ島の戦い
北部軍司令官としてアリューシャン列島のアッツ島、キスカ島を攻略した後に樋口はアッツ島、キスカ島の防衛作戦にあたる。アメリカ軍が攻めてきたのだ。
その後、ついにアッツ島の守備部隊が玉砕する。
これを終戦後、樋口は人生最大の失敗としこの事を一生忘れなかった。
キスカ島では撤退作戦を行い、霧を使って完全撤退に成功した。
その後、アメリカではこれを「パーフェクトゲーム」と称し称賛した。
この作戦では陸軍と海軍が合同で作戦を行った。
この作戦のように他でも陸軍と海軍が協力していたら、、
ここまで悲惨な状況にならなかったかも知れない。
4.占守島の戦い
みなさんは占守島の戦いはご存知であろうか。
この戦いがなければ今の日本はなかったと言えるのだが、あまり知られていない。
この戦いを率いたのが樋口、終戦後である。
ソ連が対日参戦し、南樺太、満州、千島列島に攻めてきたのだ。
その頃日本では戦闘行動を禁止する命令が出されていたが、樋口は戦い続けた。
犠牲者をだしたもののソ連に大打撃を与え、足止めに成功した。
これがなければ今の日本がどうなっていたか、、、火をみるより明らかである。