【プロセカ】私がイベランをしない理由【推しとの向き合い方】
はじめに
私がプロセカを始めたのは2022年8月頃です。2周年より少し前の、寧々バナーのゲームイベがやってたタイミングですね。つまりプロセカを始めて丸2年以上が経つことになります。
始めに言っておきたいのですが、私はプロセカが大好きです。
初めてレオニのメインストーリーを読んだときは、オープニングの時点で「え?ストーリーこんな良いの??マジで??」となりましたし、それは他ユニットのストーリーも同じでした。
キャラは全員魅力的で、それぞれの個性や感情の動き方の描写がとても丁寧で、何度イベストで泣かされたか分かりません。1年かけて約2年分のストーリーを全て読み、今もずっと現行のストーリーを追っています。
ゲーム部分に関しても、音ゲーほぼ未経験でハードが精一杯だった状態からコツコツ上達し続け、今ではマスター30~31を何とかフルコンできるくらいになりました(因みに親指勢です)。
まあ上には上がいるので別に自慢になることだとも思ってないしそんなつもりも毛頭ないですが、それだけプロセカというゲームを熱心に遊んでいるということです。
そんな私ですが、イベランをしたことは今まで1度もないし、これからもするつもりはありません。
別に推しがいないとか、そういうわけではありません。
画像からわかるように、私の推しはえむと遥です。この二人は単体でも好きだし、二人の関係性も大好きです。キズナスタンプも入手しました。
この二人の小説も書きました。今のところ計3つあります。非CPでプロセカを知ってれば誰でも読みやすいように工夫して書いているので良ければぜひ読んでみてほしいです(宣伝)。
ですが、イベランをする気はありません。仮にこの二人のイベントが来てもです。
前置きが長くなりましたが、この記事ではなぜ私がイベランをしないのか、自分の考えを書いていこうと思います。
先に言っておくと、イベランをしている人をいたずらに非難・攻撃する意図はありません。誰かを傷つけるために記事を書いているわけではないので。
ただ、イベランというものについて、もっと言えば自分の好きなキャラ・コンテンツを推すという行為について、もう少し深く考えてもらうきっかけになったらいいなという想いはあります。
性質上、大なり小なり読んでいて不快な思いをする人もいると思います。自分のやっていることを否定されたと感じて、ブラウザバックしてしまう人もきっといるでしょう。
それでも、最後まで読んでもらえれば、きっと何か得るものがあるはずです。大好きな推しに対する向き合い方を見つめ直せて良かったと、そう思ってもらえると信じています。
それくらいの記事が書けるように、私も全力を尽くします。ここまでで嫌悪感を抱かれた方も、一度でいいから騙されたと思って最後まで読んでみてほしいです。
1.そもそもなぜイベランをするの?
なぜ人はイベランをするんでしょうか? 私はしたことがないので分かりません。
……と言ったら終わってしまうので、他の人の言葉を借りて話を進めましょう。
やはりよく聞かれるのは、一言で言えば「キャラ愛の表現」でしょうか。
上位のイベント称号はよく目立つものですし、プロフィールに設定すればみんなでライブで他の人にアピールできます。カスタムプロフィールで称号をまとめている人などもよく見ますね。
ただ、もちろんですがそれらに実利はありません。
上位称号を持っていることで総合力が上がったり、スキルの倍率が上がったり、ガチャを多く回せるようになったりはしません。
イベント上位報酬では多くのクリスタルがもらえたりしますが、それを目当てにイベランするという人は基本いないでしょう。そこまで大量というわけではないですし、そもそも上位に入るためにライボ用を含めてクリスタルが相応の量必要になるので本末転倒です。
石やスキルスコア等の実利目当てでイベランをやっている人ももしかしたらいるかもしれませんが、少なくとも主流ではなさそうなのでここでは考えないことにします。
話を戻して、では実利以外でどんな目的があるのでしょうか。
察するに、それは「キャラのためにこれだけのことをやった」という事実に対する満足感なのだと思います。
そして、その結果もらえる称号は「TOP○○」という分かりやすい希少価値としてその人の努力を証明します。当然ですが、100位以内(以上)の称号を持っている人はこの世に100人しか存在しません。順位が上がれば上がるほど希少価値も高くなり、「○○イベント第1位!!」などと言ったインパクトも増していきます。
「こんなに苦労したんだから、得られたものは素晴らしいに決まってる」
そう思うのは、人間の心理として自然なことです。
心理学(経済学?)の用語で「ヴェブレン効果」というものがあるらしいです。
これは「高価な商品=価値も高い」と感じる心理のことで、これの影響でブランド物などの高価で希少な商品を、見せびらかすために購入したくなるのです(素人の知識なのでもし間違ってたら教えてください)。
早い話が「出来の良さに関わらず、高価なブランド品が欲しい」「高いんだから、良い商品に決まってる」ということです。だから自慢したくなるし、そのために欲しくなる。
高い対価を払って得たものに価値がなかったなんて、誰しも認めたくはありませんからね。
察しのいい方は私が何を言いたいのか気づいているでしょう。
これを言ったら、きっと傷つく人がいます。だけど、言わねばなりません。
しっかり向き合って、考えなければ、前には進めません。思考停止したままでは、正しい答えを選び取ることはできません。
だから、言います。最初の方で既に書いたように、攻撃する意図ではないことは、賢明なあなたなら理解してくれると信じています。
「お金とか、時間とか、もっと酷い場合には生活とか健康とか……そういう大事なものをどれだけ犠牲にしたかだけで決まるイベント順位に何の価値があるんですか? そんなもののどこが『愛』なんですか?」
2.イベランの「不健全さ」
プロセカにおいて、イベランでより上位に入るために必要になるものは何でしょうか?
まず、イベント用の編成ですね。イベントボーナスを高くするのは勿論、スキルの倍率も重要視されているみたいですね。単にその時のガチャを引いてPUを手に入れるだけでなく、マスターランクやスキルレベルも上げるとなると、結果的にかなりのクリスタルが必要になると思います。
ライブボーナスの焚き数も大事な要素でしょう。ドリンクを貯めて走る、という人もいるみたいですが、それが足りなければ石を割るしかありません。10焚きにすれば当然その分有利になりますし、言い換えればそれは焚き数を増やす余裕がある人が有利ということになります。
つまりは課金です。
そしてもちろん、それと同じ以上に大事な要素がありますね。
それはどれだけ長く回したかです。「稼働時間」とか言われてるみたいですね。
上記の要素や、他にもいろんな工夫をして仮に最高効率でプレイできたとしても、一日一時間しか回せなかったら取れる順位には限度があるでしょう。
私はやったことがないので、どれくらいの順位を取るために一日どれくらい回したらいいのかは分かりません。
しかし、上の順位を目指すほど費やさなければならない時間は増えることと、上位勢はおよそ人間とは思えないようなスケジュールで動いていることは分かります。
当然ですが、2倍の時間回せば2倍のイベントポイントが貰えます。つまり2倍有利になります。
当たり前の事実を言っただけのような気もしますが、今一度しっかり自分の頭で認識することも大事でしょう。
イベランに勝つために必要なのは、究極的に言えばお金と時間です。もちろん支援者を募ったりなど他にもあるでしょうが、突き詰めていくとこれらが自分より潤沢な人に勝つ方法はありません。
言い方を変えましょう。
健康的な睡眠や食事も、学校や仕事も、友達との約束もプロセカ以外の趣味も、全てを投げ出した人が勝つゲームです。
そんなゲームに勝って嬉しいですか? 誇らしいですか?
プロセカは音ゲーですが、ことイベランに関しては音ゲーの腕前を競っているわけではないですよね。
プレイされるのは専ら「独りんぼエンヴィー」です。もちろん緩く走る場合は他の曲やランダムでする場合もあるでしょうが、本気で上位を目指す場合は最高効率の曲……つまり独りんぼエンヴィーを回し続けるしかありません。
プロセカには現在、全部で470曲以上もの曲が収録されています。これを書いている間にも新しい曲が実装され続けています。そして、そのどれもが素晴らしい曲です。
それなのにずっと効率だけで選んだ1曲をプレイし続けるのって、普通に考えておかしいと思いませんか?
一言で言えば、イベランという行為は「不健全」なんです。
お金や時間を大量に浪費して、やることと言えばひたすら「独りんぼエンヴィー」。
音ゲー本来のゲーム性を無視していますし、私にはただの意味のない空虚な作業にしか思えません。
或いは、長時間やり続けることを考慮すると我慢比べ大会とも言えるかもしれないですね。
テレビでやってる、メガ盛りや激辛の食べ物を完食するチャレンジと同じです。
確かに、それを達成するのが困難であるのは事実です。
自分ではできないことをやってのけた人を見たとき、人は「すごい!」と思います。
実際私は、イベラン1位の人の真似をしろと言われても絶対できませんし、そういう意味ではイベラン高順位の人は「すごい」のかもしれません。
ですが「困難」であることと「価値や意味がある」こととは、必ずしもイコールではありません。
難しいから、苦労したから、高かったから、人は「価値があるはず」と思い込みます。「ヴェブレン効果」です。
でも、本当にそうでしょうか?
分かりやすい順位の数字や、「こんなに頑張ったから」という気持ちに引っ張られているだけではないと、言い切れますか?
私がイベランを嫌だと思うのは、このような「不健全さ」が大きいです。
個人的な話になってしまいますが、私は「意味を見いだせない作業」をするのが苦手です。というかできません。「これ何の意味があるの?」「これをして生まれるものにどれほどの価値があるんだろう」と思ってしまった瞬間、耐えられないほどその作業が苦痛になります。
RPGのレベル上げや、マイクラの整地とかもかなり苦手です。プロセカを始めたときにはリセマラをしなかったのですが、今思うとその作業が嫌すぎたんだと思います。
ですが、そのような作業をむしろ好きだという人もいるでしょう。
正直自分には全く分からないのですが、それを否定する理由はありません。行き過ぎたものでなければ、イベランの作業も楽しいという人もいるかもしれません。
他の大事なものを犠牲にしないで楽しくやること自体は、私は何も問題ないと思います。それは「不健全」ではありませんから。
ですが、たとえ「不健全」でなかったとしても「もっと高い順位が取りたい」「順位が高いほど、推しに多くのものを捧げるほど偉い」と思ってしまったなら、それは違うと私は言います。
その理由を、次で語ります。
3.安易な価値観
人脈や交流、終わった時の感動や達成感など「イベランで得られるものもあった」と言いたい人もいるでしょう。
ですが、それは結果論です。
餓死する寸前まで絶食した後に何かを食べて感動したからといって、絶食するのが良いことだと言えるでしょうか? 次もまたすべきだと言えるでしょうか? 普通に体に悪いし危ないだけです。
怪我の功名があったからと言って、自分から怪我をしに行く人はいません。
ただのマッチポンプだし、ヴェブレン効果によって「辛いことを我慢したから価値があるはずだ」と思いたくなっているだけです。
また、「(イベランで)たくさん課金することによってコンテンツが潤う」というのも、結局は結果論ですよね。正直、プロセカはイベランで収益を得ている節はあるような気はしますが……。
でも、それ以外のお金の落とし方はいくらでもあります。実際「一部の人が大量に課金するよりも、多くの人が毎月少しずつでも安定的に課金してくれるほうが嬉しい」と生放送で言ってましたしね。
そのためのプレパス、カラパスという仕組みもあります。自分に合った健全な課金方法を考えていきたいですね。
ただ確かにこの辺りは程度問題で、どこからが「不健全」かという明確なラインはありません。だからこそ、自分で考えることが大事なのですが……。
それよりも、この場合に注目すべきなのは結果的に得られるものがあったかよりも「なぜイベランをしたのか」です。
それが「キャラ愛の証明になると思ったから」なのであれば、それは違います。
仮にイベランで得られたものがあったとしても、緩い健全なイベランしかしたことがないという人でも、根底にある考え方がこれではだめなのです。それはとても危ういです。
「苦労したり、何かを捧げたこと自体」に価値があると思ってしまうなら、より多くものを捧げた人が、大事なものを全て犠牲にした人が一番良いということになってしまいます。
その考え方が変わらない限り、いつかは「もっともっと貢がなければ」と思ってしまうでしょう。
イベランの順位やキャラランクなどの分かりやすい指標、あるいは注いだお金や時間などがそのままキャラ愛の序列ということになるのなら、1位の人以外に存在価値はありません。それ以外の99%以上の人は1位の人の下位互換です。
つまり、恐らく1位ではないであろうあなたの愛に価値はないということになります。ただの劣化品です。
そんなはずがないでしょう。あなたは、本当にそれで満足ですか?
イベランすることがキャラ愛だと思った時点で、その馬鹿馬鹿しい価値観に同意したも同然なのです。そんなものに付き合う必要はありません。
また、キャラランクやキズナランクのためにイベランをするという人もいるでしょう。
確かにそれらを上げたい気持ちは分かります。私もえむ&遥のキズナスタンプが欲しくてコツコツ上げました。もちろんプロセカを楽しく遊べる範囲内でですが。
それらのランクを上げたい理由が、ただ純粋に「スタンプや称号、掛け合いボイスなどが欲しいから」なのであれば、多少頑張って取るのも良いでしょう。もちろん限度はありますが、自分が欲しいもののために頑張るのは普通のことです。
ですが、「ランクが高いことが愛の証明になる」と思っているのなら、結局は同じことです。
「無理して上げたランクに何の意味があるの?」……これは、イベランの順位と全く同じ問いかけですね。つまり答えも同じです。
当然キャラランクなども、お金と時間をかけた人が上に行けます。色んなものを犠牲にしてそれらをつぎ込めば、その分だけランクが上がります。
言い換えれば、ズルした人が有利です。ズルできるリソース(お金と時間)がたくさんある人の勝ちです。くだらないですね。
ただ、「無理しない健全な範囲で」という前提なら、キャラランクやキズナランクには一定の価値があるとは思います。自分の歩いてきた足跡でもあるし、キャラを推すほど上がっていきますから。
でもそこで「ランクが上=キャラ愛がある」と思ってズルをすると、途端に意味が分からなくなります。「どれだけズルしたか」という、意味のない数字に変わってしまいます。
そして健全な範囲内の話でも、やはり高い人が偉いというわけではないですね。自分の足跡なのですから、人と比べることに意味はありません。
「このキャラが大好き!」というアピールにはなっても「ランクが高い人が上」ということにはなりません。
そして、人と比べないならズルをする理由もありませんね。自分のペースでコツコツ上げれば良いだけです。あの人がランク100で自分がランク30でも、何も気にする必要はないです。その人の方がキャラ愛があるということでもありません。
というか、愛を数字や量として比べるということ自体がおかしいですよね。
それは短絡的で、思考停止した価値観です。
自分の頭を使わないで「分かりやすい方」や「考えなくていい方」に流されているだけです。
安易な方に逃げるのはやめましょう。それは回りまわって、自分を苦しめるだけです。
大事なのは、「多くのものを捧げた人や順位の高い人が素晴らしい・愛がある」という安易な価値観から解き放たれることです。順位という分かりやすさや「ヴェブレン効果」に流されず、自分自身の価値基準を持つことができるかどうかです。
そして、「本当に愛があるならどうすべきなのか」を自分の頭で考えることです。
本当に推しのことが好きなら、愛があるなら、その結果が「思考停止」であっていいはずがありません。
ですが、プロセカの界隈においてそれは殊の外難しいのかもしれません。なぜなら……
4.イベランは文化?
イベランを始めるきっかけって、何でしょうか?
もちろん一つではないでしょうが、少なくともプロセカの場合「周りの人を見て自分もやってみようと思った」というのがそれなりの割合を占めているのではないかと思っています。
逆に周囲の様子を一切見ずに、自分の判断だけでイベランという行為にたどり着き、それを実践した人は稀でしょう。
プロセカのコミュニティを見ていると、イベランをしている人や、それに関連した話をしている人が相当数います。
プロセカの界隈には「イベランは豆腐の嗜み」とでも言うような風潮が存在しているように感じます。キャラ愛があるならイベランするのは当たり前と言わんばかりの空気があります。「推しのバナーイベントが来る=イベラン」と捉えている人もいます。
もちろん、直接的にイベランしない人や順位が低い人を非難するような言動が見られるわけではありませんが、イベランする人・順位の高い人が称賛され、愛があると捉えられる向きはあります。
今イベランをしたことがない人も、他の人を見て「そういうものなんだ」「自分もした方が良いのかな」と思ったんじゃないでしょうか。
私がこの記事を書いた理由の一つが、それです。
プロセカの界隈においてはもはやイベランは文化のように扱われている節があり、それをすることが当たり前で、それは良いことなのだと思わされてしまう土壌があるのではないでしょうか。
プロセカにおいてイベランは「一部の熱狂的な人がやること」ではなく「大なり小なりみんなやるよね? 推しのために」みたいに認識されています。
正直、私には意味が分かりません。得体のしれないものを崇めているようで不気味だとさえ思います。何より、そこに異を唱える人が全くと言っていいほどいないのが気持ち悪いです。
自分の頭で考えることなく、なんとなくの雰囲気や風潮に流されて判断してしまっていませんか?
何度か言っている「ヴェブレン効果」には、自己顕示欲や承認欲求が深く関わっているそうです。
つまり、ブランド物などの分かりやすい高級品を手に入れて周りからチヤホヤされたい、すごいと思われたいという心理と同じで、イベランで上位を取ることで周りから一目置かれたり、「こんなに頑張った自分のキャラ愛はすごいんだ」と自尊心を満たしたりしたいのです。
それが果たして本当に良いことなのか?というのは、考えればわかる話です。
高価だからと言って、良いものとは限りません。もちろん「高くて品質も良いもの」は存在しますが、それを見分けるにはしっかり自分の目で見て、頭で考える必要があります。
そして、そういった「本当に良いもの」は「価格が高いから価値がある」のではありません。逆ですね。価値のあるものだから価格も高くなるんです。
ただ高いだけのものを手に入れて見せびらかしても、自分の価値は上がりません。
私たちは、そこをしっかりと考えなくてはなりません。
分かりやすく「価値があるように見える」ものに流されずに、「自分にとって本当に価値あるものとは何か」を考え、見つけ出し、世間の作る空気や風潮の外側に行かなければ、本当の意味でその欲求が満たされることはありません。
ですが、それは辛いです。大変です。
私だって、そういった「分かりやすさの暴力」に辟易することは多々あります。そういうものに流されてしまうのが人間の心理なのですから、それに抗うのは容易なことではないです。
誰にも認めてもらえないのは、苦しいです。
イベランすることで、その結果として「順位」を得ることで認められていると感じるなら、それを辞めるのは並大抵のことではないでしょう。
特にプロセカの界隈では、そういう空気や風潮があります。イベランをしなくなったら自分の価値が下がるんじゃないか、誰にも認めてもらえなくなるんじゃないかと思ってしまう人もいるかもしれません。
だから、私が認めます。
この記事を読んで、もし「確かに、過度なイベランって馬鹿みたいだな」「多くのものを捧げることがキャラ愛ではないのか」って思ってもらえたなら、そんなあなたを私は称賛したい。
それはとてもとても大きな一歩です。そうやって自分の頭で考えて道を選べるあなたは、きっと素敵な人間になれます。少なくとも、私はそう思います。
承認が欲しいなら、私が差し上げます。
人の承認欲求を指摘しておいてそれを放置するのは、無責任ですから。非力かもしれませんが、あなたの踏み出す一歩を肯定する最初の一人に、私がなります。
ですが、こう思った人もいるでしょう。
「キャラのために何かしたいと思うことの何が間違ってるんだ」
「イベランしないで、どうやって推しへの愛を形にするんだ」と。
前者については、何も間違ってないです。好きなものがあるというのは素晴らしいことで、それを行動に移したくなるのも当然のことです。
推しのグッズを欲しくなったり、「お布施」としてコンテンツにお金を落としたいと思うのは何も悪いことではないです。むしろ良いことです。
が、限度はあります。生活に支障が出るレベルでお金を使い、「たくさんお金を使ったこと自体に満足する」のは、ただのヴェブレン効果です。それは「推しのため」ではなく「自分の自己顕示欲や承認欲求を短絡的な手段で満たすため」でしかありません。
当然ですが、お金以外についても同じことですね。
だからこそ、後者を考えなくてはなりません。
「好き」という気持ちは大きな原動力になります。それこそ、過酷なイベランを乗り越えてしまえるくらいにです。
では私たちはその大きな原動力を、「推しへの愛」を、どんな形で行動に移すべきなのでしょうか?
そこに決まりきった答えはないでしょう。そもそも、その答えは自分で考えて出さなければ意味がありません。
ですが、これだけ人のやっている行為を否定しておいて、その後は新天地に放り出して終わりというのも薄情な話です。
だからここからは私がやっていることと、そこにある考えを書いていきます。
私のやっていることが全てではありません。私自身、常により良い方法を考え続けていますし、その進歩と精進は永遠に続くものだと思っています。
だからあくまで参考にとどめつつ、一緒に考えましょう。
「推し活」なんて言葉もある昨今、私たちは推しにどう向き合うべきなのかを。
5.推しを「悪者」にしないために
私は幼い頃に見たとあるアニメがずっと大好きで、今でもずっと憧れています。
ここでは深く語りませんが、その作品は自分にたくさんの「たいせつなこと」を教えてくれました。人として生きる上で、本当に大事なことを、たくさん教えてもらったのです。
私は、それに背いた生き方をしていたくはありません。あの時教えてもらったことがくだらないことだったなんて、誰にも言わせたくないです。
そのためには、それを心に抱いて生きる私自身が、胸を張れる生き方をしていなければなりません。
好きなものを好きになったことが、好きでいることが、自分の人生にとってマイナスであって良いはずがありません。
せっかくなら、好きでいることが自分や誰かにとってプラスになるようにしたいと思いませんか?
好きになったことで「イベランを頑張らなくちゃ」と思いつめ、他の大事なものを犠牲にしてしまうのは、そこから一番遠い行いです。
大好きな推しのせいで、自分の人生がダメになる。それで満足ですか?
誰かに「そら見たことか。こんなものを好きになるからそういうことになるんだ。やっぱりお前の好きなものはくだらないな」なんて言われて、良いんですか?
「推しのおかげで、こんなにも人生が良くなった。だから自分の推しは素晴らしいんだ! 最高なんだ!」と、そう言っていたくありませんか?
推しのために本当にすべきこととは、そういうことなのではないでしょうか?
では、具体的には何をすべきでしょう?
前述したように、そこに決まりきった答えはないし、自分次第でその可能性はいくらでも広げられます。
例えば、私は遥を見習ってランニングを始めました。元々運動不足な自覚はあり、体調も不安定だったので思い切って始めてみたのですが、そうしたら目に見えて体調が良くなりました。身体だけでなく、良いストレス発散にもなっている感じがします。
私は決して運動が得意ではありません。むしろ部活や体育の授業の影響で苦手意識がありました。ですが、遥のおかげで「誰かと比べるのではなく自分のために運動する」ことができるようになりましたし、そういう運動は実はとても楽しいのだと気づきました。
何より、そんな私の行いを遥本人が見たら応援してくれるだろうという確信が、私にはとても嬉しいのです。
始めて1年半ほどが経ちましたが、これから先もやめる気はありませんし、きっと年老いて動けなくなるまで続けるだろうなと思っています。
もう一つ、少し違う方向性の例を出すと、冒頭で紹介したえむ&遥の小説です。
自分の大好きなこの二人の関係性の良さを伝えるために、拙いながら筆を執りました。自分の「好き」を、他の人に知ってもらうための行いです。
厳密には小説を書いたのはプロセカが初めてではないのですが、他の作品・キャラでも同じことです。私はいつも、明確に伝えたいことがあって文を書いています。
数の大小にかかわらず、自分の伝えたいことが伝わった人がいるのなら、苦労して書いた意味があったと言えるでしょう。実際、嬉しいコメントをもらったこともあります。
それに「小説を書く」という、新しいことに挑戦できたというのも、誇れる事実です。
自分の文が上手いなどと自惚れる気はありませんが、自分の手で作品を完成させてきたということに違いはありません。創作というのは最初に手を出すときは尻込みしますが、完成させるたびに自分の中のハードルは下がっていきます。
今こうして記事を書いているのもそうですが、大きな視点で見れば「文章を書いてネットに上げる」ということの経験値にもつながっています。
今挙げたのは、あくまで一例です。他にも私のやっていることはたくさんあるし、私がやっていないこともどんどん見つけて実践していってほしいです。
別に、大層なことじゃなくていいのです。どんな些細なことでも、たとえ誰にも気づかれなくとも、自分や誰かの人生に少しでもいい影響を与えられるなら、それはイベランで1位を取るよりも素晴らしいことです。
「ぶつけるべきではない怒りを堪えられた」
「隣の人に少しだけ優しくできた」
「気になる人に話しかけることができた」
「友達に布教したものを好きになってもらえた」
「好きな作者さんに感想を伝えられた」
「夜更かしや体に良くない食べ物を我慢できた」
「挫けそうでも、明日はきっと良いことがあると信じられた」
……何でもいいです。それが好きなもののおかげであるなら、推しが心の中にいることで実現できたことなら、それは推しへの愛のなせる業です。
他の誰でもないあなた自身の、誇るべきものです。
これはあくまで私の場合ですが、あてはまる人も多いと思うので話します。
私はよく「自分の推しなら、こんな時どうするだろう?」「今の自分を推しが見たら、何と言われるだろう?」と考えます。
私は色んな作品を見て色んなキャラに憧れてきましたが、挫折をすることはあっても、折れたまま腐って終わりなんて人は一人もいませんでした。
いざというときに、勇気を出して踏み出すことができる人ばかりでした。
少なくとも、プロセカのキャラは全員そうなのではないでしょうか。
彼らはみな、仲間を大切にし、一人ではできないことを成し遂げ、自分自身に負けず、向き合うべきものに向き合い、お互いを認め、許し、受け入れ、より良い未来を見るために懸命に生きていました。
フィクションだとか、そんなことは関係ありません。私は彼らの生き様に憧れたから、自分もそうしていたい。彼らに顔向けできる自分でいたい。それだけです。
あなたの推しは、どうですか? 無理なイベランで大事なものを犠牲にするような人ですか? またそれを肯定するような人ですか?
推しを「悪者」にしないために、私たちにできることは何でしょうか?
少なくとも、ヴェブレン効果に負けてひたすらにイベランをすることではないと、私は思います。
思考停止せずに、常に「自分の向き合い方はこれで合っているだろうか」「推しに誇れる自分でいられているだろうか」と考え続け、より良い道を目指していくのです。
それこそが本当の意味で「自分の好きなものの価値を証明する方法」であり「自分の愛を証明する方法」でもあるのだと、私は思っています。
だから私は、イベランをしないのです。
おわりに
ここまで読んでくれたあなたは、どんな気持ちでいるでしょうか。
普段からイベランをしている人は、否定されて嫌な気持ちになったでしょう。
薄々気づいていたイベランというものの歪さを突き付けられて、はっとした人もいるかもしれません。
或いは、「お前に言われなくても同じこと考えてたわ」という人がいるなら、それはとても嬉しいですが……。
不快な思いをさせてしまった人には、先に謝っておきます。本当にごめんなさい。
正直、これを書いている今も投稿するのが怖いです。こんな内容、本当に言っていいのかと思う部分もあります。
ですが、この記事が誰かを傷つけるために書かれたものではないことは、ここまで読めばきっと理解していただけると思います。
私はただ純粋に、推しとの向き合い方についてよく考えてほしいのです。あなたの中にある「好き」という素敵な気持ちを、無駄にしてほしくないのです。
向き合うというのは、決して楽しいことばかりではありません。
私は今のような生き方をしていて、苦しいと思うことがたくさんあります。やめたほうがきっと楽なんだろうなとも思います。
でも、やめる気はありません。後悔もしていません。
この生き方をしている方がずっと自分に自信が持てるし、好きなものを誇れるし、推しを近くに感じられるからです。
少し油断すれば、ヴェブレン効果はすぐにあなたの邪魔をします。
あなたの眼を曇らせようと、思考力を奪おうと、「分かりやすさの暴力」でもって、あなたに牙を剥くのです。
ついつい、順位の高い人が偉いような気がしてしまうのです。イベランしなきゃと思ってしまうのです。
それに、前章で私が挙げたような行為は、はっきり言って地味です。何も考えずにイベランをした方が、手っ取り早く自分を満たせます(それが落とし穴であることは、散々語った通りです)。
分かりやすい成果が欲しくて、つい短絡的な思考になってしまうのです。
それを完璧に防ぐことは難しいです。私だって、いついかなる時もそれができているとは言えませんから。
ですが、あなたは既にその対処法を知っているはずです。
人間には理性というものがあります。「ヴェブレン効果ってものがあるんだ」「人間の心理ではこういう風に思い込みがちなんだ」と知っていれば、理性を働かせて自分の眼を曇らせずにいることはできるはずです。
たとえ一時負けてしまう時があるとしても、その知識があれば負けっぱなしにはならずにいられます。
急にはできないかもしれません。それでも、あなたが諦めない限り、自分の頭で考えることをやめない限り、いつか何かを掴める日が来ます。
途中でも言ったように、この記事の内容を理解してもらえるなら、私はあなたの味方です。
苦しくても、本当に大事な何かを掴み取ろうとするあなたを、私は肯定します。
承認に飢えているのなら、私で良ければいくらでも認めましょう。私に何かできることがあれば、コメントで書いてくれても全然かまいません。
推しのために、好きなもののために、一緒に頑張ってみませんか?
自分次第で、イベラン以外にもその方法はいくらでも見つけられるのですから。
語りたいことは語りつくしたと思うので、今回の記事はこの辺りで終わりにしようと思います。
この記事がどれくらいの人に届くのかは分かりません。ですが、一人でも「推しとの向き合い方」を考えるきっかけになったという人がいるのなら、それだけで私はこれを書いてよかったと思えます。
願わくば、あなたがその「一人」であってほしい。
では、また機会があればお会いしましょう。
あなたが「ヴェブレン効果」に負けないことを、祈っています。