ひとり暮らし、最期まで家で過ごしたい
数年前に奥さんを亡くして、親兄弟もなく一人暮らしだった男性が「最後まで家にいたい」と望みました。
手術を受けた病院へは、歩くことが難しくなって、自動車の運転も危険で、通院することができなくなっていました。
家の中で動くこともままならず、包括支援センターが関わり始めます。
訪問介護で連日食事の用意など生活の支援を受けて、かかりつけ医が訪問診療をすることになりました。
訪問看護の希望があって、私たち看護師は出会うことになります。
包括支援センターと行政が「最後まで家にいたい」という意思を受けて、ケア会議が開かれました。
集まったのは、包括支援センター、ケアマネ、行政の保健師や民生委員、友人、訪問介護や福祉用具、訪問看護の担当者です。
本人の意向通りに暮らすことに対して、彼が「今」できることを共有しました。
それができなくなったら、誰がどのように関わっていくのか、その方法で尊厳が保たれるのかの意見を出し合いました。
この会議で、関わる人たちが病状や予測される変化を知ります。
民生委員からは、ごみの出し方など地域のことを教えてもらい、彼の意向通り自動車や、家を手放すことの援助、金融機関の解約など様々な手続きをする機関も加わることになりました。
彼が自分の足で、できないことを社会のルールに沿って他者が行う方法を決めました。
訪問看護師の役割は、かかりつけ医への報告と、病状の把握や急変時の対応です。集まった方へは、具体的にどんな時に、連絡が欲しいかを伝えました。
そして、次に意思確認をする時期も決まり会議は終わりました。
沢山の人が支援の方向を共有しました。
午前は、月・水・金曜日の看護師、火・木・土・日曜は訪問介護が決まった時間訪問して、午後はメールで連絡を受けると友人が来てくれ、不定期でケアマネや保健師なども訪ねていました。
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2週間経ったころ、横になっている時間が増えてきて、ケア会議が再度開かれました。
会議前日には、意思確認がされ、「最後まで家にいる」という意向は変わりませんでした。
身寄りのない彼の希望を、このまま叶えることは尊厳を保つことになるのか、話し合われました。そこには友人の姿はありませんでした。
その頃は、ベッドから動けない状態が間近で、本人から発信できないことが想定されました。
目をかける人が更に必要になります。
訪問体制は変更されました。
一日の始まりは、包括支援センターの担当者が、朝の通勤時に彼の家に寄るところからです。「カーテンを開けてきました。お元気でした」と訪問看護に電話をくれました。
様子が違う時は、訪問介護や訪問看護に連絡が入りました。
訪問介護は身体的な支援が中心になって、朝と夕方訪問してくれました。カーテンを閉めるのは訪問介護です。「様子が違う」と訪問看護に連絡があれば緊急訪問をして、医師の判断が必要な状態であれば、かかりつけ医に報告しました。
私たち看護師は昼過ぎに訪問して、介護保険外の支援者も隙間に加わり、毎日代わる代わる違う時間にそれぞれが彼の家を尋ねました。
彼のベッドに吊るしてある在宅支援ノートに各々が記録をして、自分の前に訪問した人からの情報を得ました。
例えば朝に訪問介護で顔と手を拭いていたら、次に訪問する看護師は褥瘡(寝だこ)を確認しながら上半身を拭くなど、負担をかけずに心地よいケアができるよう、眠る時間が増えても彼が求めていることを考えました。
彼のベッドの頭側の壁には、大きな模造紙に医師や訪問看護の連絡先が貼り出されていました。
誰が尋ねて来ても、もしもの時に遭遇したら連絡できるように。
もしも・・・は、包括支援センターの担当者が訪問した時でした。
彼は希望通り最後まで家で過ごしました。