在宅(家)を選ぶ、それとも病院
生き物は、産まれた時から終着駅に向かって歩いている。
必ず、訪れる死から目を背けず、それまでの時間を大切に生きて欲しい。
人生の幕引きには色んな形があっていいと教えてくれた、在宅で出会った方たちと訪問看護師のお話です。
60代の男性Gさんは、お腹の痛みと吐き気、食事が摂れないので、近くのクリニックを受診しました。検査をして内服薬をもらい、総合病院を紹介されました。
総合病院では腹部エコーとCTをして、腸閉塞がわかり、次は造影CTで回盲部癌、多発肝転移と診断されました。癌性腹膜炎が起こっていてS状結腸が狭窄していました。
人工肛門は癌性腹膜炎のため造ることができず、鎖骨のところからCVポートという点滴を入れる場所を造って、化学療法が始まりました。
栄養は口から摂っても、消化管が狭くて排泄できない状態なので、高カロリー輸液も始まりました。
化学療法をして、CT上癌の縮小が認められましたが、S状結腸狭窄部は変わらず、吐き気止めの座薬と痛みに対して貼り薬を使うようになりました。
義母さんの在宅療養で縁があり、奥さんから直接相談の電話があって、私たち訪問看護師が介入することになりました。
義母さんの介護中は、Gさんは夜勤明けで家にいることもあって、数回顔を会わせたことがありました。ふっくらした体形の優しい顔のご主人だと記憶していました。
退院カンファレンスで、私たち訪問看護師は病状や今後の生活について情報集めをします。
会議のメンバーは、本人と奥さん、病棟副師長、担当看護師、地域連携室看護師、かかりつけ医、福祉用具担当者、ケアマネと私たち訪問看護師です。
Gさんは、消化管の病気で、食事が摂れていなかったので当然ですが、以前会った時より痩せていて、硬い表情をしていました。
病状や治療の経過の説明を受けて、退院後に行われる化学療法の予定を確認しました。
奥さんは仕事をしていましたが、介護休暇を取って介護に専念すると話しました。
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退院日は家に到着する時間に合わせて、在宅メンバー(かかりつけ医、福祉用具、ケアマネ、訪問看護師)が自宅に参集しました。
点滴が首元の鎖骨のところから出て、お腹が動かず吐き気があるので、胃から鼻にチューブが出ていてバックにつながって、それぞれ点滴棒に吊るされています。
チューブは四六時中つながっているので点滴棒を押しながら歩きます。私たち訪問看護師は、家の段差やトイレまでの動線で今から困ることが無いかを確認しました。
チューブ2つは、抜けたり詰まったりしたら病院にとんぼ返りする場合もあります。
「せっかく帰ってきたのにそれだけは避けたい」
予測される変化が起こったら、誰が何をしていくのかを確認しました。
首元からは24時間ポンプが同じ量で点滴を落としています。
病院の指導で、点滴の輸液交換は奥さんが覚えてくれて、看護師が訪問した時は、針や輸液が通るルートの交換をしました。
針を抜いたら、体から輸液が離れます。
その間に奥さんが手伝って、シャワーに入りました。
元々、遠慮深い性格なGさんと、それを知っている奥さんからの希望もあり、歩くことに問題がないので、奥さんにお願いしました。
待つ間、私たち看護師は点滴の準備をしてポンプの確認をして待ちます。シャワーから出てきたら、新しい点滴につないでポンプを再開します。
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お腹の痛みは、医療用麻薬の貼り薬を使い、突発的な痛みには医療用麻薬の舌下錠を使いました。
Gさんは「痛みが強くなる前に屯用薬を使っている。効いていると思う」と言いました。
適切に使っているので、痛みで動けないことはありません。
腸は狭くなっていて心配していましたが、便は少しずつ毎日ありました。
これは何より嬉しいことでした。
出口まで通っていれば吐き気は治まっています。腸の音は弱い時もあれば良く動いている時もありました。
口からは水を100ml位のめるようになって、吐き気もなく、「家に帰ってきて、気を使わなくていいから安心」と笑顔で話すようになりました。
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退院の翌月は首元の点滴を刺しているところが腫れて、かかりつけ医の往診後に感染疑いで総合病院を受診しました。
点滴は中止になりました。
トラブルがチャンスになりました。
流動食の許可が出て、水分やスープ、高カロリー飲料を口にするようになりました。食べたい物が頭に浮かぶと挑戦することができました。
吐くことはなく、腸も動いていて、予定通り化学療法も行えました。
在宅ならではの過ごし方ができて、私たち訪問看護師も何を食べたか聞くことできて、嬉しい時間になりました。
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退院3ヶ月後、頻回に吐くようになり、腸閉塞の診断で総合病院へ2週間程入院しました。
その翌月も嘔吐があると私たち看護師に連絡があり、腸閉塞が疑われる お腹の状態で、総合病院を受診しました。今度は10日程入院治療しました。
首元の輸液ポートは反対側に再建されて再び高カロリー点滴が始まりました。
お腹を休ませなければいけないので、口から食べることは中止になりました。
その後に化学療法の為にした入院時も、腸閉塞で数日入院治療しては家に帰ることを繰り返しました。
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病状は一進一退で、Gさんは治療費を心配していていました。
介護休暇の期限がきたら、仕事復帰した方がGさんは安心するけれど、奥さん自身は介護に専念するために退職を考えていました。
程なく退院しましたが、鼻からの管は茶褐色の排液が出ていて吐き気は続いていました。
Gさんは、口から食べることは望まなくなりました。
歩くことも難しくなってベットで過ごす時間が増えました。
お腹の痛みは強くなって、貼り薬は増量になりました。
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今度は高熱が出て吐き気もあり、救急外来を受診して入院しました。
血液検査上、次回からの化学療法の内容変更と判断され退院しましたが、すぐに発熱と吐き気があると電話があり、私たち訪問看護師は緊急訪問しました。
奥さんとGさんの希望で救急車を要請し入院になりました。
化学療法継続困難との判断になりました。
奥さんは辛い気持ちでしたが、Gさんは「抗癌剤をしたい気持ちは無い」と断言しました。
対症療法へ切り替えることになりました。
ここから半年の予後と聞き、在宅(家)か病院で過ごすか、奥さんは悩みました。
奥さんから何度となく相談の電話をもらい、その都度何が いいことなのかを皆で考えました。
奥さんは母親の在宅介護の経験もあって、介護のために退職することも考えていました。ところが、Gさんは一人で介護することになる奥さんの気持ちが、不安にならないことを、心配しているのだそうです。
年の離れた夫婦で、いつも奥さんの気持ちを汲んでくれるご主人なのだそうです。Gさんは自分のことより奥さんの気持ちを重んじてくれていました。
たくさん考えて、総合病院から療養病院へ転院すること決め、最期を迎えました。
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奥さんから連絡を頂き、穏やかな顔で眠るGさんに会いました。
眠るGさんの横で最期の様子を教えてくれました。
奥さんは転院先の病院に毎日通い、ベットサイドで一日を過ごしたそうです。
ある日、Gさんの携帯電話にある番号を頼りに、別れた奥さんに連絡をしたそうです。
すごい勇気と決断です。
別れてからずっと会っていなかった子供さんとも連絡がついて、会うことができたそうです。
病室で撮った集合写真も見せて頂きました。
会わない間に子供さんは結婚していました。写真に写る幼いお孫さんがGさんに似ています。
病室のベッドで家族に囲まれているGさんは優しい顔をしています。
離れて住む家族と再会して数日後に息を引き取ったそうです。
在宅(家)で看取ったお母さんの時と違うお別れのように感じるかも知れませんが、最後に過ごす場所が違うだけで、家族の想いは同じだと感じました。
最後を迎えることを受けいれて、安心して過ごせて、思い残すことが1つでも減るように時を紡いだことが伝わりました。
そうして過ごすことで、遺される方のこれからを、大切な人の存在を抱いて生きる日々にするのだと思うのです。