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ノケモノの地下城 10【長編小説】
「早く入りなよ」
ともに促され、私は事務所に入った。
「蒸し暑いな。クーラー、クーラー」
「今、つけたよ。ソファ座ってて。俺、着替えてくる」
そういうと、ともはパーテーションの奥に消えていった。
のんびり着替えなんかして。
内心、悪態をついていると、ともは思ったより早く出てきた。手には缶コーヒーを二本持っている。
「はい。冷えてるのこれしかなかったよ」
「こういうのは、気が利くんだな」
「嫌みかよ。博人さんみたいなこと言うんだね」
「兄貴の悪口はよせ。俺が口すべらしたらどうするんだ。兄貴、根に持つぞ」
ともは笑って、缶コーヒーを開ける。
しかし、嫌みなのはあの店員だ。私は、受け取った缶コーヒーをちびちび飲みながら思う。食い意地はって食べた定食で、まだ腹が苦しかった。やはり、やめておけばよかった。
あの定食屋で、三人前のチキン南蛮はさすがに無理だと思い、箸を置いていたのだが、客の注文で通りかかった店員に、「ほらね」といわんばかりの顔をされ、無理やりかきこんだ。そして、トドメのパフェ。いきなり団子はパフェのトッピングにするもんじゃない。さつまいもとあんこを餅生地で包んだこの団子は、三時のおやつに食べるものだ。
私が定食屋のことを思い出している前で、ともは、小学生が牛乳を一気飲みするように缶コーヒーを飲み干した。見ているこっちの胃がひっくりかえりそうになる。
ともは、空になった缶をゴミ箱に捨てると、私の向かいに座った。
「では、蔵谷様。依頼の内容をお聞きしましょう」
「気持ち悪い。普通にしろ」
ともは、肩をすくめると私に話をうながした。私はまだ不安だったが、衣川先生と地図のことを説明した。
一通り話が終ると、ともが、「じゃあ、手元にあるのは写真だけかぁ」といった。
「ああ、うちが依頼を受けたのはその地図に一致する場所の地層調査だけだからな。実物は借りれなかった。亜紀姉ちゃんにちゃんと伝えろよ」
「分かってるって。あ、調査費用は前払いでお願いしまーす」
ともは笑顔で両手を前に出してきた。
私は、清藤事務所を出て歩道に立っていた。あまりの暑さにめまいがした。
太陽の光が脳天と腕を焼く。道路には逃げ水が見える。真夏の熊本市内は灼熱地獄だった。
私がたまらず木陰に入ったその時、歩行者信号が青に変わり、道路中央を走る路面電車が停車した。ちょうど停留所で停まっている。もういい。家まで遠回りになるが、路面電車で熊本駅まで行って電車で帰ろう。
私は暑さに負け、路面電車に飛び乗った。
車内はクーラーが効いていて、汗が一気に引いた。少し効きすぎているくらいだ。となりに座っている女性は、水色のブランケットを膝に掛けている。この女性も、私が電車に飛び乗ると同時に乗り込んできたが、今は少し寒そうである。
私は腕を組んで、正面の車窓から流れる町並みをぼんやりと眺めていた。数駅過ぎたところで、「次は呉服町《ごふくまち》、呉服町」と車内アナウンスがながれた。ぞくぞくと人が立ち上がる。この路面電車は、運転士の横に料金箱があり、人も多く乗っているため、早めに立ち上がり、前で待っておく人が多い。
となりの女性も立ち上がる。と、電車がカーブで大きく揺れた。女性がよろけ、私の足を踏みつけ、肩にぶつかった。
「すみませんっ」
女性が謝る。
私は平気なふりをして、いえいえ全然、といって手を降った。ぶつかったのが定食で膨れた腹じゃなくてよかったと、内心ひやひやしながら。
「どうぞ、気をつけて」
私が降り口へ手を向けると、女性はもう一度頭を下げ、降りていった。
家には一時前には着いた。
家はしんとしていた。
父はまだ事務所で仕事中だろうが、兄も帰っていないのが気になった。私がちゃんと仕事をしてきたか、しかめ面で待ち構えていると思っていたのだが。
母の部屋に顔を出し、帰ってきた旨を伝える。揺り椅子に座って、窓辺から外を眺めていた母が振り返る。ふわりと花の香りがただよってきた。母の香りだ。母は微笑むと、また窓辺に向きなおった。私はそっと部屋を出た。
私は自室のベッドに横になると、祖父との思い出の地図のことを考えた。
そもそも、何であの地図が書庫にあったのだろう。書庫にあるということは、地下水脈と関係がある資料なのか? そんなものを祖父が、子どもの私に見せていた? いや、あれは昔話をするために出してきただけの地図だった。
祖父は、どこから出していた?
いつも縁側に座っていて……。確かあれは、そうだ、和室の床の間だ。床の間に置いてる箱から出してたような。それならば、地下水脈とは関係ないはずた。私が蔵谷家の本当の仕事を知ったあの日、父に教わった。地下水脈に関する資料は、全て地下書庫に保管する決まりだと。
私は寝返りを打ち、スマートフォンを取り出そうとバッグに手を突っ込んだ。すると、爪の先に覚えのないものが触れた。指先でつかんで取り出す。ラミネート加工されたカードだった。表には、「キルトクラブ会員衣川洋子」とあり、裏面には、「砧屋」という店の名前とアクセスマップがのっていた。場所は、呉服町電停から徒歩五分と書いてある。
呉服町。あの、車内でぶつかった水色のブランケットの女性が思い浮かんだ。
衣川洋子。
先生と同じ名字……。
(続く)
この作品は小説投稿サイトエブリスタに載せていたものです。