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ノケモノの地下城 30【長編小説】
清藤事務所へ向かうまでの間、私はともと秀ちゃんに門番の男のことを聞いた。
「何であの門番はお前たちのことをあんなに嫌ってたんだ? さっきみたいに何かやらかしたことがあったのか?」
ともと秀ちゃんが顔を見合わせる。ともは眉をひそめて首を横にふったが、秀ちゃんは話しておいたほうがいいよ、と語気を強めて言った。ともは、しょうがなくという風に話し始めた。
暗い洞で、僕らの先祖である石工衆は仕事をしてきた。清正様が築き上げた熊本城と町をこれからも守るために。
清正様が熊本城を築城した際、僕らの先祖は、同時に地下の抜け穴も造った。城に抜け穴を造るのは基本なんだ。そしてその抜け穴は、限られた人間にしか伝えられない。抜け穴を掘ったとき、特別な地下道がすでに存在することが分かった。幸人くんたちの管理する地下水脈の洞《うろ》のことだよ。洞をめぐって大いに揉めた。こんなものがあれば、戦《いくさ》の時、間者《かんじゃ》が入り込むし、守備に穴ができる。それで、洞に暮らす篠崎家とは激しい争いになった。篠崎家は洞とつながる城の抜け穴に水を流してやると脅してきた。清正様に討伐隊を派遣してもらうかどうかというところまで話がこじれた。だけど、結果的に清正様は篠崎家の要求をのんで、地下道とつながる城の抜け穴の維持を優先した。篠崎家の要求は河川工事だった。元々、清正様も治水のために河川改修は検討されていた。そこに、河川を地下水脈に都合のよい流れに変えたかった篠崎家の思惑が一致した。篠崎家がいくら地下の管理人とはいっても、地上の河川の流れを変えるほどの力はない。篠崎家にとって本当に都合がよかったんだ。そこで、いったん和解した。どちらも、熊本を守るという点では目的は一致していたからね。
問題は、その後明治十年に起きた西南戦争だった。豊臣から徳川の時代になり、清正様が亡くなったあとすぐに加藤家は改易された。その後、熊本に入った細川家が二百年近く統治している間は平和だった。清正様亡きあとは、清藤家も出田家も地下に潜って静かに暮らしていた。だけど、あの西南戦争で熊本城の天守閣が焼失した。城と言ったとき、それの指すものは天守閣だけじゃないけど、その当時はもう城が失くなったと言っても過言ではないほどの事件だった。すぐに清藤家が調査した。天守閣と抜け穴が通じている道は一本だけ。その道に出火の痕跡が見つかった。その一本を知っているものは、当時の清藤家家長と篠崎家家長のみ。火をつけたのはおそらく篠崎家だ。清藤家は篠崎家に猛抗議した。篠崎家は明治の時代に入ってから、一部の洞を封鎖しようとしていた。その一部に熊本城の抜け穴も含まれていた。城の抜け穴は、清正様に一生守るよう命じられたものだ。清正様亡きあとだろうが、絶対に潰せない。篠崎家を問いただすが、のらりくらりとかわされる。洞に居座る僕らが目障りで排除したかったんだろう。一族どうしの話し合いは、清正様時代以来の緊張状態に達した。結局、篠崎家は火をつけたなんて認めないし、清藤家も決定的な証拠は見つけられなかった。清藤家と出田家は城を守れなかった償いとして、自分たちの知るかぎりの洞全てを潰して、一族心中しようとした。予想以上の反発と覚悟に慌てた篠崎家は、和解案を出し、蔵谷家に仲裁を依頼した。最終的に、清藤家と出田家が洞から出て行く代わりに、城の抜け穴は維持されることになった。もちろん、洞での仕事は今まで通り続けさせてもらうことを条件に。
だから、篠崎家の人は、今も清藤家と出田家の人間が我がもの顔で洞に出入りしていることを面白く思っていないーー。
(続く)
この作品は小説投稿サイトエブリスタに載せていたものです。