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2-0: Soaring Arrow - Sun Shangxiang, Dragon and Star
幼少期
燃えるような夕焼けが、長江の水面を茜色に染め上げていた。8歳になる孫尚香は、兄である孫策、孫権とともに、屋敷の庭で弓の稽古に励んでいた。的は庭の隅に立てかけられた古びた藁束。幼い孫尚香には、まだ大人の使う強弓は引けない。彼女の小さな手に握られているのは、父・孫堅が特別に作らせた、軽い子供用の弓だった。
「尚香、もっと腰を入れて。腕の力だけで引こうとしても、矢は飛ばないぞ」
16歳になる孫策が、妹の背後に立ち、優しく指導する。孫策は、父譲りの逞しい体躯と、燃えるような闘志を秘めた眼差しを持つ、若き武将だった。既に「小覇王」の異名を持ち、周囲からは将来を嘱望されていた。
「尚香。弓は全身を使って引くものだ。的に当てることばかり考えちゃダメだ」
12歳の孫権も、兄に続いて助言する。孫権は、兄とは対照的に、冷静沈着な性格だった。その瞳には、幼いながらも、鋭い知性と洞察力が宿っていた。
「うん、わかってる…」
孫尚香は、兄たちの言葉に頷きながらも、なかなか上手く弓を引くことができない。的に向かって矢を放つが、どれも力なく地面に落ちるか、的を大きく外れてしまう。
(どうして、上手くできないの…?)
焦りと苛立ちが、孫尚香の胸に広がる。兄たちは、あんなに簡単に、遠くまで矢を飛ばしているのに。自分だけが、まるで違う生き物のように感じられた。
「尚香、一度休憩しよう。あまり根を詰めすぎると、体に力が入って、余計に飛ばなくなるぞ」
孫策が、妹の肩に手を置き、優しく声をかける。
「そうね。少し休んで、また頑張りましょう」
孫権も、兄に同意する。
孫尚香は、兄たちの優しさに甘え、弓を置いて、庭の隅にある井戸のそばに腰を下ろした。冷たい水で顔を洗い、息を吐く。
(私には、才能がないのかな…)
落ち込む孫尚香の視界に、空に浮かぶ雲が映った。夕焼けに染められた雲は、まるで燃え上がる炎のようだった。
その時、孫尚香の体の中に、不思議な力が湧き上がってくるのを感じた。まるで、雲が自分を呼んでいるかのような、抗いがたい衝動。
孫尚香は、無意識のうちに弓を手に取り、矢をつがえた。そして、空に向かって、思い切り弓を引いた。
放たれた矢は、美しい弧を描きながら、空高く舞い上がっていく。まるで、意志を持った生き物のように、雲に向かって一直線に飛んでいく。
次の瞬間、奇跡が起きた。
矢が雲に到達すると、まるで魔法のように、雲が真っ二つに割れたのだ。割れ目から、夕焼けの光が差し込み、空に巨大な穴が開いたように見える。
「……!」
孫策と孫権は、目の前で起きた信じられない光景に、言葉を失っていた。二人の顔には、驚愕と、そしてかすかな畏怖の念が浮かんでいた。
孫尚香は、兄たちの驚く顔を見て、無邪気に笑った。
「ねえ、見て見て! 雲、割っちゃった!」
その笑顔は、幼い少女の無邪気さそのものだった。しかし、その瞳の奥には、まだ誰も知らない、巨大な力が秘められていた。
それからというもの、孫尚香は、弓術の稽古に、ますます熱心に取り組むようになった。彼女は、自分の能力を制御する方法を、徐々に学び始めた。風を読み、空気の密度を感じ、そして、重力の流れを捉える。
「私には、見えるの。風の流れ、空気の動きが」
二人は、妹の言葉の意味を、完全には理解できなかった。しかし、彼女が、特別な力を持っていることだけは、確かだった。
孫策と孫権は、そんな妹の姿を、誇らしく、そして、少し心配そうに見守っていた。
出生の秘密
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それから数年後、孫尚香は、見違えるほどに成長していた。すらりと伸びた手足、意志の強さを感じさせる瞳。そして、何よりも、その弓の腕前は、目を見張るものがあった。
190年、孫尚香が10代になったある日、彼女は父・孫堅に呼び出された。孫堅は、孫家の当主として、常に厳格な態度を崩さない男だった。しかし、その日は、どこか緊張した面持ちで、娘を迎えた。
「尚香、お前に話しておかねばならぬことがある」
孫堅は、重々しい口調で切り出した。
「お前は、私の妹の娘だ。つまり、策や権とは、従兄妹の関係になる」
孫尚香は、父の言葉に、大きな衝撃を受けた。
(お兄様たちが、従兄…?)
信じられない思いで、父の顔を見つめる。
「なぜ、今まで黙っていたのですか…?」
震える声で、問いかける。
「お前が幼すぎたからだ。そして、この秘密は、孫家の存亡に関わることだからだ」
孫堅は、懐から、古びた小さな巻物を取り出した。
「これは、孫家に代々伝わる、龍の血統に関する記録だ。お前は、この血を受け継いでいる」
巻物には、見慣れない文字で、何かが書かれていた。
「龍の血統…?」
「そうだ。孫家には、古くから、特別な力を持つ娘が生まれるという言い伝えがある。その力は、弓術に現れることが多い。お前の並外れた弓の腕前は、その証だ」
孫尚香は、自分の体の中に、何か特別な力が宿っていることは、薄々感じていた。しかし、それが「龍の血統」と呼ばれるものだとは、夢にも思わなかった。
「この巻物には、何と書かれているのですか…?」
「龍の娘には女の子しか生まれず、女子にのみ能力が受け継がれること。もし男児が生まれたら災いをなすであろうこと…などが書かれている」
孫堅は、重苦しい表情で、言葉を続けた。
「お前が、この秘密を知った上で、どう生きるか。それは、お前自身が決めることだ。だが、忘れるな。お前は、孫家の娘だ。そして、龍の血を引く者だ」
孫尚香は、父の言葉を、深く胸に刻み込んだ。自分が、特別な存在であること。そして、その力には、大きな責任が伴うこと。
しかし、同時に、彼女の心には、もう一つの不安が芽生えていた。
(お兄様たちとの関係は、どうなってしまうの…?)
実の兄妹ではないと知ったことで、今まで当たり前だった関係が、変わってしまうのではないか。その恐れが、孫尚香の心を締め付けていた。
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