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#4「偏差値」と「共感性」

同窓会は好きだ。
環境が異なって生まれ落ちたら、この人に自分がなっているかもしれない。
そしてその人の全量を知り得ないわけだから。
その瞬間で、彼彼女の生きてきたシーンを引き出しては紡いでいく。

なのに、グラスが手から離れない。

人の話を聞くのも引き出すのも好きなのに、周りの人がその話に入ってきづらい。私と一対一で話せれば飽きることもなく、際限なく、時間を消費できる。複数人ではその会話の盛り上げができずに、気持ちの逃げからグラスを常に握ってしまう。

「共感」と「偏差値」

かつての偉業を果たした偉人たちの多くは大麻を愛用していた。
それは脳のトルクを落とすためである。アルコールの場合、理性が強いと脳の思考力が鈍りづらい。鈍りづらいという言葉は完全には適切ではなく、起きたまま脳を休めることができづらい、という表現がよりただしい。

彼らの多くは、その孤独さに苦しんでいた。
文学的、科学的、職業的に偏差値が高い場合、人と会話のテンポまたは内容のレベルが合いづらい。「おもしろい」とは人と違うことの裏返しである。「普通」とのズレがおもしろさや関心を掻き立てる。

人はその「異なるズレの集合体として個性」を内面にも外面にも抱える。

偏差値が高いという表現は、そのズレが複数起きている状態のことだともいえる。高すぎる場合は低めの人に対して「共感性」が著しく落ちうる。逆に低い人は高い人の話を理解しえない。

だからこそ、人との商売を生業にするビジネスにおいて、偏差値が高すぎるのはデメリットになりうる。自分が消費者の第一人者となる可能性が低いならば、持ちうる仮説も当事者のそれとはずれ込んでくる。

私がここで話したいのは、年々ライフステージのズレが大きくなるにつれて、やっと「同じ体力で、同じ休みで、同じ趣味で、同じ予算感で楽しめる相手は貴重」という言葉の意味が真に理解できたということ。

私は地元の友人たちが好きだ。
人を見下さず、今を生きている。謙虚で素直で、優しい。
私が彼らといる限り、私は彼らの時間が楽しく明るく思い出深いものにしたいと思う。

ただ、それが年々できにくくなっていると感じる。
趣味、ファッション、情熱、なにか盛り上がりを持つものがない。共通点がとにかく見つからない。そうか、だから大人たちは「昔話」をよくするのか。

今や自分たちを繋ぐのが同窓会という絆なら、そこに重きをおいて過去の話に全振りするのもいいだろう。あの時の真相、またあの時が起こるならどうしたいか。そうだね、それが正しい。

次は、同窓会のテーマの重点は、「過去の話」に着眼点をおこう。

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