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気づき(楽しさの正体2025年1月25日)
最近暖かくて助かる。
暖冬の外は気持ちよい。
暖冬と冷夏はどっちがよいだろうかと思ったが、冷夏はちょっと損した気がするから暖冬の方がいいなと、電車に揺られながら思った。
大勢が集まる新年会があったので、休日に一人、会場へ向かう。
このちょっと大勢の会に行くときの緊張感は、いつまで続くのだろうか。
おじさんになれば無くなると思っていたのに。特になくならない。少し薄まった気はするが。逆にこの歳ならではの緊張感を感じるようにもなった気がする。(どういう立場でいりゃいいんだろうなぁとかそういうの)
なぜ緊張するのだろうと考えると、きっと良く見られたいとかすごいと思われたい、面白く思われたいということを無意識に感じているからなんではないかと思う。
もういいだろうよ。
いつまでそんなことを思うんだ潜在意識。
今この場で取り繕っても、なんら変わることはないのだから、ありのままでいこうと思うといくらか落ち着く。
ただ厄介なのは、「面白いと思われたい」 この欲求だ。
ありのままの自分でなく、無理をして面白いことをやろうとして、から回った姿は、ある意味たしかに面白いに値する気がするのだ。
それは悪いことでもない気もする。チャレンジしているのだから。
だから何もできていない自分になにか後悔めいたものを感じてしまうのである。
ここであることに気づく。
いや、何しに行ってんの?
である。
私は新年会に何をしに行っているのか。
面白いと思われたい、良い人間と思われたい、これらは全て他者視点の話しなのだ。自分を楽しませるために行くのではないのか。自分を楽しませる手段は何だ。新年会の何を楽しみたいのか。
休日の昼だというのに、電車はわりと混んでいる。
車窓に広がるのは東京。どこを見ても人がいる。
そんな中にこんなに新年会へ行く心構えを考えている奴がどれくらいいるのだろうか。
そもそも、面白いと思われてもむなしいだけだ。
あぶな。
面白いと思われた先になにがあるんだ。何を思っているんだ私は。
恐ろしい気付き。
小学生の頃から無意識に染み付いていた、面白いと思われたいという感覚の無意味さを電車の小一時間でいとも簡単に暴いてしまった。
その場を面白くすることに、皆と一緒に加担したい、というところが正直なところではないだろうか。加担できればなんでもいいだろう。別に見ているだけでもいいのだ。
なるほど腑に落ちる。
しかしどうにもこれも他力本願すぎる。
自分をもっと楽しませてやりたい。
自分が楽しいと思う瞬間は何だ。
考えてみるとそれは何か新しいことを知ったり、新しい体験をしている時な気がする。
そこでこう考えた。
何か一つでも、新しい発見をしたら大成功としよう。と。
すると、ふっと心が軽くなった。
何か新しいものは、大小問わずしたら、結構あるものだ。それでいい。それが楽しさだ。楽しみになってきた。
そうこう考えていると、電車は目的地へ着いた。
ドアが開くと涼しい空気がすーっと体を通り抜ける。
外は涼しいが寒いというほどもない。良い。
新年会は普通に楽しかった。
新しい発見としては、某ライターの着ている服の茶色が、妙に良い茶色だったということだ。あの茶色は気品のある良い茶色だった。
あいつはいい茶色を着ていたなぁ。
そう思うだけで、楽しかったと錯覚する。
良い発見をしたと思う。