29年目の1月17日に思う事
📌重要📌昨今のニュースを見て息苦しく感じている人は読まないことをお勧めしておきます。
また、今回の記事は2024年1月16日にInstagramに投稿したものを一部note用に再編集したものです。
(1700文字の長文になったのでnoteにも転載しようと考えたまでです。Instagramで最後まで読んでくれた人本当にありがとうございます)
明日はどんなことがあっても忘れはしない日。
今年は年始早々能登半島地震が発生しました。
東北の人は、3月11日のことを。
関西の人は、1月17日のことを。
九州の人は、4月14日のことを。
フラッシュバックした人は数多くいらっしゃるかと思います。
個人的な話にはなりますが、おすみの父は神戸港に着岸した船上で地震に遭いました。
当時のおすみの父は神戸と四国・九州を結ぶカーフェリーの航海士でした。
その日、父の乗るフェリーは定刻より5分早い早朝5時40分に着岸しました。
この早着は結果的にラッキーだったのかもしれません。
5時46分、神戸市に震度7の地震が発生。
地震発生後、乗客と航走していた車両を急いで無事に全て降ろし、フェリーは神戸港沖へ避難。
フェリーが離岸すると岸壁やボーディングブリッジはすぐに崩れ、その光景を船上から見た父は初めて恐怖を感じたと言います。
その年の2月に1年間の陸上勤務の内示を受けていた父は、震災で予定が前倒しになりました。
父が任された仕事は、フェリーの運行再開と神戸港の復興でした。
フェリーは大阪南港の暫定利用による運行再開を経て約半年後には神戸港の利用を再開しました。
その間に大分と愛媛を高速船で結ぶと言う別のプロジェクトも任されていた父は大変そうだけどものすごく輝いて見えました。
おすみ自身が被災地神戸を訪れたのはその年の秋。
当時中学2年生、修学旅行先は奈良・京都・大阪城、そして神戸のポートピアランドでした。
奇しくも父が勤務する会社のフェリーで大分から神戸へ向かう旅程。
神戸港からバスに乗り、車窓から見えた仮設住宅群に衝撃を受けました。
あれから今年で29年が経ちます。
この29年の間に年号は変わり、ライフスタイルも変わり、当時中学生だったおすみは中は中でも中年の域に達しました。
神戸とは勝手ながら遠からずの縁を感じています。
修学旅行で、生徒会長の発案で合唱したポートピアランドは後に閉園しましたが、その10年後に現ノエビアスタジアム神戸のホームゴール裏で神戸讃歌を大合唱する未来は知る由もありませんでした。
未来は誰にも分かりません。
ヴィッセル神戸のサポーター集団と共に過ごしていた時期はその数年後からうつ病に苦しみ、障害者手帳を得る未来など思いもしませんでした。
うつ病をきっかけにサッカーから身は離れ、必然的に周囲から孤立しました。
『あぁ、このまま誰にも気づかれずに死ぬんだ』と諦めた時もありました。
昨季、ヴィッセル神戸が初のリーグ戦制覇を成し遂げたことは周知の事でしょう。
彼らはどんなことがあっても〝トモニイコウ〟を合言葉に頂に向かって戦い続けました。
このスローガンはおすみがヴィッセルのゴール裏にいた前から変わらずに今も続いています。
おすみはあの頃に『トモニイコウ』の魂を宿していたのかもしれません。
それも紐解くに中学の修学旅行…いやそれ以前の船乗りの父と造船会社勤務の母との間におすみが生命を授かった時から既に神戸と言う処に所以と言うか縁があったと感じるところです。
一度はうつ病で全てを失いましたが、今はまた新たな縁に恵まれて今日に至ります。
初めて診断を受けた頃は難病とも言われたうつ病も、今はSNS技術の発展で医者や家族といった身内以外の当事者同士でも心の痛みを分かち合えるようになりました。
不思議なもので、切れた縁の跡にはまた新たな縁が何かしら繋がります。
そんな前向きになれるのも、周囲でいいねと押してくれる方々がいるからです。
明日で29年。
来年で30年。
節目の年となる来年まで、そしてその先も神戸で得た【縁】を大切に周囲の皆さんと共に歩んで行けたらいいなと思います。